生きている者の神

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ルカの福音書 24章1~12節>
牧師:砂山 智

開会聖句

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

<マタイの福音書 22章32節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
動画公開をいましばらくお待ちください。

 
 

 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「ルカ」からの最終回です。

<本論>
1.復活の記事

ユダヤの安息日は金曜日ですが、今のように午前 0 時に日付が変わるのではなく、「創世記」に『夕があり、朝があった。第〇日』とあるように、夕方(日没)から日付が変わるという、“けったいな”ルールになっています。また、聖書の時代の夜というのは、今の夜とは違い、真っ暗で危険で、特に女性がどこかに出かけるということは難しかったと思われますので、1 節の女性たちは、イエス様が十字架で息を引き取られた金曜日(ユダヤでは木曜日になりますが)の翌日の土曜日の夜が明けるのを待って、日曜日の明け方早くに準備していた香料を持ってイエス様が葬られた墓までやって来たのです。その女性たちの名前は 10 節に記されてあります。そして、その墓で彼女たちが見たこと、経験したことは、先程、読んでいただいた 2~8 節に書かれてありましたが、イエス様の復活については、ルカだけでなく、四つの福音書すべてが証言を残しています。ただ、その証言には微妙な食い違いがあるんですね。今回、改めて、それぞれの平行箇所を見直してみたんですが、まず「マタイ」では次のように書かれています。

『すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった』(マタ 28:2~4)。

「マルコ」では、

『墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた』(マル 16:5)。

そして「ヨハネ」では、

『すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた』(ヨハ 20:12)。

これらはみな、多少の時間的なズレはあったとしても、同じ場面を描いた記事と思われますが、それぞれ微妙に違っています。それがなぜなのかは分かりません。無理やり辻褄を合わせようとしたり、もっともらしく説明する必要もないでしょう。ただ、それらの記事の一番大切なところは同じなんです。つまり、墓はからっぽであったということ。それが、この物語の核心なんですね。四人の人間が同じ場面を描こうとした時、しかも、その四人全員が、使徒であったマタイとヨハネも含めて、この場面の直接の目撃者ではなかったわけですから、むしろ食い違っていて当然と言うか、その方が自然だと言えるのではないでしょうか。

2. どうして生きている方を

そして、今朝の場面で彼女たちの前に現れた二人の人、まばゆいばかりの衣を着た二人が発した第一声は、何というか、その核心であるからっぽの墓の中から響いてきた声にふさわしいものでした。5 節の後半。

『「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか』(ルカ 24:5b)。

私は、このことばを読んで、何か自分に向かって言われているように聞こえました。自分自身の信仰が問われているように思えたのです。「お前は神を信じていると言っているけれども、それは単に頭の中だけのことであって、何か神やイエス・キリストのことを、もっともらしく語っているだけなんじゃないの」というような。この、「どうして生きている方を死人の中に捜すのですか」ということばは、イエス・キリストという方は歴史上の偉人や英雄の一人のようではない。そんな私たちの研究や議論の対象になるような方ではなく、今、具体的に私たちを救い、慰め、約束を成就し、そして、私たちに熱く近づいて来てくださる方なんだ、と言っているように思えたんです。そのようなキリストとの交わりを抜きにした信仰生活というのは、それは信仰生活ではなくて単なる道徳的な生き方のようなものと言えるのではないでしょうか。イエス
様は、

『わたしはよみがえりです。いのちです』(ヨハ 11:25)

と言われました。このことばは、日本語としてはおかしな表現なんですが、何か不思議な力が秘められているように感じます。イエス様は、「よみがえるとはこういうことなんだよ」とか、「(永遠の)いのちというのはこういうものなんだよ」と言われたのではなく、「わたしはよみがえりです。いのちです」と言われた。そんな方はイエス様お一人だけなんです。

3. しかしペテロは立ち上がり

そして、今朝のまばゆいばかりの衣を着た二人からのことばを聞いた彼女たちは、イエスのことばを思い出した、と 8 節に記されています。私たちも、何十回、何百回と聖書を読んでいても、「ああ、今までちっとも分かってなかったんやなぁ」と思わされる時がありますが、彼女たちも、この時、そんな気持ちだったのではないでしょうか。それで、彼女たちは十一人の使徒たちに自分が見たことの一部始終を話すのですが、11 節。

『この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった』(ルカ 24:11)。

この「たわごと」とは、精神錯乱によるうわごとという意味だそうです。生前のイエス様の側近くで仕え、9 章 22 節にあるように、イエス様から、自分は多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない、と聞かされてきたはずの彼らでしたが、彼女たちの話を全く信じようとしなかったんですね。ただ、ペテロだけは自分の目で確かめようとしたみたいですが、からっぽの墓を見ただけで帰って来たとあります。ペテロというのは、いつも使徒たちを代表してと言うか、私たちを代表して、色々な失敗や滑稽な姿を見せてくれる人なんですが、最後の

『それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った』(同 24:12b)

というルカの解説は、奇跡や不思議な出来事というのは、驚きではあっても、それが直接、信仰とはつながらないということを示しているのではないでしょうか。

<結論>

今朝の開会聖句ですが、このみことばは、少し前の 23 節にあるように、復活はないと言っているサドカイ人たちとの問答の中で語られたみことばです。29 節から読ませていただきます。

『イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」』(マタ 22:29~32)。

この箇所について、藤木正三師が「この光にふれたら」という本の中で次のような一文を書いておられましたので、最後にご紹介して、今朝のメッセージを終わります。

「『神は生きている者の神である』のです。神さまの前では全てが生きているのです。ですから、つまらぬ雑用も生きるのです。無駄と思える努力も生きるのです。空しく過ぎたと思える時間も生きるのです。踏みにじられた厚意も生きるのです。役に立たなかった準備も生きるのです。報いられなかった忍耐も生きるのです。はかなく潰えた希望も生きるのです。そうです。皆生きるのです。孤独も生きる、病気も生きる、不幸も生きる、悩みも生きる、痛みも生きる、罪さえも生きるのです。そのように全てを生かしてくださる方、それが聖書の神さまです。そのような方としての神さまに出会う、聖書は、そのように読めたらどのような読み方をしてもよい本です。しかし、そのように読めなかったら、いくら厳密に読んだとしても、思い違いをした読み方なのです。『神は生きている者の神である』のです。思い違いをしないようにいたしましょう。」
(「この光にふれたら」藤木正三著 p12~13 (日本基督教団出版局))

メッセージ原稿のダウンロード(PDF97KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌126番、メッセージ後:新聖歌129番

聖書交読

詩編118篇 1~14節

2025年教会行事


4月23日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2969

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