なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ルカの福音書 18章1~8節>
牧師:砂山 智
開会聖句
愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」
<ローマ人への手紙 12章19節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開をいましばらくお待ちください。
メッセージ原稿を公開しました。
・「ルカ」からの四回目です。
<本論>
1. 祈り
18章前半には「祈り」に関して、ルカ独特のたとえ話が二つ組み合されています。その最初が今朝のたとえで、もう一つが、そのすぐ後にあるパリサイ人と取税人のたとえです(9~14節)。特に今朝のたとえは、一見しただけでは誤解してしまいやすいたとえと言えるかもしれません。それは冒頭に、『いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために』と書かれてあるからです。ただ、最後の結論部分には『人の子が来るとき』とありますので、このたとえが焦点を当てているのは、イエス様の再臨、所謂、終末だということが分かります。その意味で、このたとえは、すぐ前の17章20~37節の説話の続編とも言えるでしょう。そして、その最も大切な結論部分、教訓である6~8節は、わざわざたとえ本文からワンクッション置く形で切り離され、改めて『主は言われた』ということばで始まっています。それは、この結論部分を、より強調するためであったと思われますが、ここで注目すべき点が三つあります。その一つは、7節の「神」が8節では「人の子」に変わっているということ。二点目は、7節の「叫び求めている=祈り」が8節では「信仰」に変わっているということ。そして、三点目は、神からの応答としての「さばき」が「人の子が来るとき」に変わっているということです。しかも、その人の子が来るとき、つまり、イエス様の再臨は、私たちの信仰や祈りの有無とは一切関係なく訪れるように語られます。それは、人間にはどうすることもできない神の専権事項だということです。これらのことから言えることは、何かイエス様は、昼も夜も関係なく、熱心に祈り続けるように命じておられるのだとか、私たちが熱心に祈るならば神は聞いてくださるけれども、熱心に祈らなければ神は聞いてくださらないよ、と言っておられるように感じるかもしれませんが、決してそういうことではないんですね。それだと、まるで人間が神様をコントロールできるかのようなことになってしまいますが、このたとえで言われていることは、そういうことではないんです。イエス様は「マタイ」で、
「また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」(同6:7~8)
と教えてくださったのですから。
2. 不正な裁判官とやもめ
そして、もう一つ誤解しやすいのが、このたとえに出て来る「不正」ということばです。ここで言われている不正というのは、何か道徳的、或いは法律的な意味において不正ということではないんです。なぜなら、この裁判官は、遅ればせながらではありましたが、やもめからの訴えを取り上げて、裁判をしてやってますから。ただ、2節に『神を恐れず、人を人とも思わない』とあるように、彼は、この世的と言うか、この世の価値観でさばきを行う裁判官だった。それが、このたとえの「不正」ということばの意味なんですね。そして、そんな裁判官に必死で訴えているやもめというのは、このたとえの直接的な読者であった初代教会のクリスチャンたちを指していると思われます。彼らは、この世の価値観の中で迫害を受け、まさに昼も夜も神に助けを叫び求めざるを得ない、祈らざるを得ない状況に置かれていたのです。だからイエス様は、このたとえの最後で警告の意味を込めて言われたのです。『人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか』と。ただ、それはもちろん、終末の時代にも、必ず「残りの者」、イエス様に従う者たちが残されていることを前提にした(預言した)ことばであったわけですが。
3. パリサイ人と取税人
そして、最初にお話ししましたように、このすぐ後のパリサイ人と取税人のたとえも、今朝のたとえと関連付けられています。その結論は、14節にあるような、大どんでん返しです。神の御前で義と認められたのは、立派な祈りを献げたパリサイ人ではなくて、「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人のほうだったという。そして、このどんでん返しも、単に二人の高慢と謙遜の違いが招いた結果ということではないんです。なぜなら、パリサイ人の祈りは、当時の彼らの生き方からすれば、ある意味、当然の祈りであったからです。彼らの多くは、実際、律法を遵守し、品行方正に生きていました。ただ問題は、このパリサイ人は誰に向かって祈りを献げたのかということなんです。11節に。彼は『心の中でこんな祈りをした』と書かれています。それは言い換えれば、彼は神に向かって祈ったのではなく、自分自身に向かって、自分の心に向かって祈ったということではないでしょうか。それは文法的にもそうなんですね。この箇所の彼の祈りに出て来る動詞はすべて一人称単数の形になっており、「この私は、週に二度断食しています。私は、すべて得たものから十分一を献げています」ということが強調されているんです。ですから、一見すると、彼は神様に向かって祈っているように見えたと思いますが、実はそうではなくて、自分自身に向かって独り言のようにつぶやいていた。そして、その独り言のような祈りは、周りの人に聞かせるための「せりふ」のようなものでもあった、と言えるでしょう。それがパリサイ人の祈りであり、自らの行いで自らを正しいとする姿だったのです。それに対して取税人の祈りは、全くもって祈りのようではなかったかもしれないけれども、「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈っている時点で、彼は真に神様に向かって祈りを献げているのです。先程も申し上げましたように、これらのたとえを聞いている初代教会の人たちの中には、先の見えない迫害の中で、祈ることに疲れ果て、失望してしまって、信仰を失ってしまうのではないかと心配するような人たちがいたようですが、もう一方では、このたとえのパリサイ人のように、神に信頼し、神に祈るのではなく、自分の努力に信頼し、自らを義(正しい)とする人たちもいたということでしょう。そして、それは、今の私たちへの、この私への警告でもあると思うのです。
<結論>
『愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」』(ローマ12:19)。
パウロはその後で次のように言っています。
『「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい』(同12:20~21)。
さばきとか、終末というと、どうしても天国と地獄に分けられて、地獄では閻魔大王みたいな恐ろしい神様がさばきを下されるイメージがあるかもしれませんが、そのときには、この世界で起きたすべてのことが明らかとなり、主のみこころが完成し、天地ついには一つなって、そのご支配が回復するのです。そして、もちろんですが、この私も、そして、あなたも、さばかれる側なんです。もちろん、その時にはイエス様が側にいてくださるのですが。さばきは神の専権事項であり。私たちがなすべきことは、神を信じ、おゆだねして、主の業に励むことなんですね。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌109番、メッセージ後:新聖歌465番
聖書交読
詩編115篇 1~18節
2025年教会行事
4月9日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)
#57-2967