カインへの期待

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 4章1~8節>
信徒:K

開会聖句

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。

<ガラテヤ人への手紙 5章13節>

メッセージ内容

Youtube動画

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メッセージ原稿を公開しました。
 

<はじめに>  
小林一茶の俳句に、「御免なり将棋の駒は箱の内」という句があります。彼は51歳という晩婚で、長野の農家の出身ですが、あるときそこの殿様から俳句の会を催すので来るようにと家来を遣わされました。本来なら断る選択などないのですが、彼はこの句でうまく断りました。句の意味はこうです。将棋の世界は目の前の対戦相手との気の抜けない緊張の世界です。でも、その駒も一旦勝負が終わり、箱の中に入れば緊張から解かれ自由にくつろぎます。彼にとって家庭は上下関係の厳しい社会とは違い、ほっとできる場所でした。彼は参加したくない思いを、私は対戦の終わった将棋の駒のように今は家でくつろいでいますと、返事したのです。私はこの話を聞いて、素直にそうだなあと思いました。しかし、この頃、家庭って本当にそうなの?という気もします。江戸時代の一茶目線で言えば、そうかもしれませんが、人間の集まりである家族は、昔から色々複雑な問題、事情を抱えていたのではないでしょうか。昔はいい時代だったというより、問題が表面化しにくかっただけではと思います。今日は聖書に出てくる最初の家族の話です。主題は「カインについて」。その人物について、そして神との関わりについて読んでいき、そこから、明日の私たちへの生き方につなげたいと思います。

<本論>
I.エバのカインへの期待
Ⅰ.エバのカインへの期待

1~2節「人は、その妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み…彼女はまた弟アベルを産んだ。…」

聖書の最初の家族の構成は、人アダム、妻エバ、長男カイン、次男アベルです。この両親は最初の人間ですが、神の手によって造られたという点で、私たちとは違いますね。私たちはこの兄弟と同じなのです。彼らは両親のもとで産まれ、育てられ、大人になりました。両親ははじめから大人でしたから、家族という人間関係の中で育ったという点で、この二人は私たちの最初であり、同じなのです。子どもにとって、どんな家庭環境、家族関係の中で育ったかは、その人格形成に深く影響すると言われていますが、今日の主人公カインはどんな家庭環境の中で、生まれ育ったのでしょうか。

1節には、エバが人アダムによって妊娠し、カインが産まれたことが記されています。そのとき、エバは

「私は主によって一人の男子を得た。」

と言いました。エバの喜びが大変大きかったことが感じられます。もちろん、最初の出産ですから、誰でも当然と言えば当然です。しかし、3:16の女へのさばきのことばに、

「あなたは苦しんで子を産む。」

がありました

。20節では「人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が…すべての母だからであった」

とあるので、「産めよ、増えよ」という神の祝福は失なわれてはないけれど、出産は不安で、怖いことではなかったでしょうか。日に日に自分の身体が変化し、不快感や苦痛もある。痛みも襲ってくる。その不安と苦しみに耐え、無事に生まれた子を抱いた彼女は大きな仕事を終えた達成感を味わったと思うのです。この子の名はカイン。カインは下の脚注に「私は得た」の原語と音が類似と書かれています。ヘブル語の「得る」は「カーナー」ということばです。つまり、カインという名には、エバの「私は主によってひとりの人を得た」という神への感謝と賛美、そして喜びの思いが溢れているのです。アダムとエバはエデンを追われたけれど、主の祝福の全てがなくなったわけではない。エデンでの生活と違い、日々の生活は苦しみも多いが、新しい家族が与えられたことに大きな慰めを感じたのではないでしょうか。それはアダムも同じ思いであったでしょう。彼は糧を得るために汗を流して地を耕し、その仕事を長男カインも手伝って育ったのでしょう。このように、カインは生まれた時から両親にたいそう喜ばれて育ったと考えられます。カイン本人も自分は期待されている、大事にされている、喜ばれているという自覚を養いながら、育ったと思います。

そして、2節でアベルが生まれますが、兄とは対照的に、彼の出産については短く、

「彼女はまた、その弟アベルを産んだ。」

の一言です。彼の名アベルの語源は「息、はかなさ」を表すことばであり、なにか存在感がない、希薄な感じですね。とかく、第一子というのは過剰な期待のもとで生まれ育てられることが多いです。写真の量を見れば、一目瞭然。1人目はその成長の記録が細やかに残され、2人目以降は行事のときくらいしか写真がなかったりする。長男、次男に限らず、同じ両親のもとで生まれても、育つ環境は違うのです。そして2節は「産んだ」のあと、いきなり

「アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者となった。」

と続きます。2人は成人したわけですが、あまり期待されてない、存在感の薄い弟アベルがここでは先に、絶大な存在感を放つ兄カインが後になっています。

この二人のことは新約の2カ所で記されています。

へブル11:4「信仰によって,アベルはカインよりも優れたいけにえを献げ、そのいけにえによって…」
Ⅰヨハネ3:12「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。…自分の行いが悪…く」

アベルは信仰の人と評価され、カインは信仰がなく、弟を妬み怒りを爆発させた殺人者という評価ですね。それはその通りですが、カインに弟殺しのレッテルを張り、悪いお手本にして終わりではなく、私たちは罪によって夫婦関係に「支配」という歪みが入ったように、兄弟の関係にも「敵対心」という歪みがあらわれた、その罪のもたらす悪い事態に、神がどう関わろうとされるのかという話として、読んでいきたいと思います。

II.神のカインへの期待

3~5節「…カインは大地の実りを主へのささげ物として持って来た。アベルもまたは自分の羊の初子の中から、肥えた物を持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。しかし、カインとそのささげ物には目をとめられなかった。…」

なぜ、アベルのささげ物には神が目を留められ、カインのにはそうされなかったのか。この疑問に対して、色々な説がありますが、一般にはアベルが信仰(神を敬う心)によって献げたからと考えられています。以前の新改訳は特にそうです。

「カインは地の作物から主へのささげ物を持って来た。アベルは…それも最良のものを、それも自分自身で持って来た。」

二人のささげ物には、「信仰を持って」ということで、はっきり差がついてる気がします。2017はそんな差がないんじゃないかな?でも、生き物はいのちがあるし、カインは農作物だから、やっぱり、信仰なのでしょうか?本を読んで教えられたことがあります。ルカの福音書に、神殿の献金箱にわずか2レプタをささげたやもめの話があります(21章)。イエスは多く献金する人と比べて、彼女が誰よりも多くささげたと評価されました。又、顔を伏せて神殿の遠くから祈った取税人がいました(18章)。堂々と自分の行いを誇示するように祈るパリサイ人もいましたが、神に聞かれたのは取税人の祈りでした。神は、自分は正しいと言う強い存在より、存在感の薄い弱者に目を留められます。つまり、神が目を留められたのは、アベルが弱者だったからという説があります。いつも兄の影にいるアベルのささげ物に神は目を留められたというのも、納得いく考え方です。正直なところはわかりませんが、カインがなぜ激しく怒り、顔を伏せたかはわかりますよね。お兄ちゃんは面白くなかったのです。弟がライバルに!

6~7節「なぜ、あなたは怒っているのか。顔を伏せているのか。」神はカインの心の内をわかっていながら、話を進めます。「もしあなたが良いことをしているなら、受け入れられる。しかし…。戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」

これは命令ですが、次の訳の可能性も含むそうです。

「あなたにその意思があれば、罪を治めることができるだろう」。

そうであれば、神のことばは命令ではなく、罪を治めることができるだろうというカインへの約束、期待なのです。両親に期待され育ったカインに、神も期待されました。私たちの交わりは神との交わり、人との交わりでしたね。神を愛しているなら、人(弟)も愛するはず、神はそうすることー罪を治めることをカインに期待された。それこそ、神がカインに期待されたささげ物だったのではと思います。
さて、カインは神の期待通りにできた?否。

8節「カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。」

彼は待ち伏せしている罪に支配され、アベルを殺しました。この話は創世記の最初の家族の話ですが、創世記は最後も家族の話なのです。ヨセフ物語。ここでも兄たちに妬まれたヨセフが殺されかけます。命拾いはしますが、何十年の間に色々な紆余曲折(神の介入、兄弟たちの訓練)があって、彼らは最後に和解をしました。創世記が家庭の兄弟の争いに始まり、兄弟の和解で終わるのも偶然ではなく、それが神の最大の関心事だからでしょう。

<おわりに>
今日の開会聖句

ガラテヤ5:13節「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。 ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

先週はマルタとマリアという姉妹の話でした。聖書に兄弟間の問題が多いのは、そこに生まれる敵対心が、人間関係に生じてくる共通の罪の性質だからでしょう。しかし、イエスによって罪赦された私たちは肉の思いに縛られず、神の前で生きるという自由が与えられてます。姉さんマルタのその後は書かれてませんが、私は妹マリアへの腹立たしい思いに一時は支配され、イエスに文句を言いましたが、意思を働かせて妹への腹立たしさを治めることができただろうと思ってます。カインはできなかったけど。神の私たちへの期待は、敵対という歪んだ関係を乗り越え、人と人の間に平和をつくることだと思います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF94KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌38番、メッセージ後:新聖歌337番

聖書交読

詩編113篇 1~9節

2024年教会行事

3月26日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時

#57-2965

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