マルタとマリア

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ルカの福音書 10章38~42節>
牧師:砂山 智

開会聖句

しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

<ルカの福音書 10章42節>

メッセージ内容

Youtube動画

 

公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:3/23 AM 9:03
 https://youtu.be/


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
「ルカ」からの三回目です。今朝の物語は、信仰歴の長い方は一度や二度は礼拝説教などでお聞きになったことのある物語ではないかと思います。その理由は、とてもコンパクトで、説教のテキストとして取り上げやすいということもあるでしょうが、それ以上に、この短い物語が、私たちに多くの霊的な示唆を与えてくれるから、ということでしょう。そして、今朝の話のすぐ前にはあの有名な「よきサマリア人」のたとえがあります。ある律法の専門家がイエス様に「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねるのですが、今朝の話は、よきサマリア人のたとえとともに、その答えとして、この箇所に挿入されたようにも思えます。

<本論>
1. エルサレムへの道

「ルカ」には、イエス様の公生涯におけるはっきりとした転換点が記されています。それは9章の51節です。

『さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた』(ルカ9:51)。

それまで、ご自分の故郷であるガリラヤで弟子たちとともに宣教に励んでおられたイエス様は、この時からエルサレムを目指して進んで行かれます。それはもちろん、天に上げられるため。つまり、十字架の受難と復活、そして昇天のためでした。この後、19章44節までの約10章に渡って、イエス様と弟子たちのエルサレムへの旅行記が続きます。その「ルカ」の中央段落とも呼べる箇所には、ルカが独自に集めた多くのたとえ話などが収められています。今朝のマルタとマリアの話も、よきサマリア人のたとえと同じく、四つの福音書の中でルカだけが記している話です。
最初の38節に『ある村』とありましたが、それは恐らくベタニアという村であったと思われます。「ヨハネ」11章のラザロの物語にマルタとマリアがその姉妹として登場し、彼らが住んでいたのがベタニアであったことが記されているからです。ベタニアはエルサレム近郊のオリーブ山の南東側にあった村で、この時、マルタとマリアの家を訪れたのはイエス様だけではなく、十二弟子とイエス様につき従っていた人たちもいたでしょう。ですから、結構な大人数だったと思います、マルタはその一行をもてなすために忙しく働いていたのです。彼女も最初は、純粋にというか、「あのイエス様のために精一杯おもてなしをしたい」という一心から、頑張っていたと思います。しかし、妹のマリアが何の手伝いもしないでイエス様の足もとに座り込んで話を聞いている姿を見て、腹が立って来るんですね。40節。

『ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」』(ルカ10:40)。

マルタの怒りはマリアではなく、自分がおもてなしをしているイエス様に向けられています。そして、「主よ、何ともお思いにならないのですか!」と責め、遂には自分の思い通りにイエス様を使おうと命令までしています。私だったら、きっと「なんで俺に言うの?本人に直接言えば!」と返したと思いますが、イエス様はそうは言われなかったんです。

『主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」』(同10:41~42)。

2. 必要なことは一つだけ

イエス様は「マルタ、マルタ」と彼女の名前を、二度呼ばれました。もしかしたら、マルタの剣幕があまりにも凄まじかったので少し落ち着かせようとされたのかもしれませんが…。いや、そうじゃないですね。同じ「ルカ」22章の最後の晩餐の席でも、イエス様はペテロに「シモン、シモン」と、二度呼びかけておられます。二度、名前を呼ぶのは、親愛の表現と言えるでしょう。イエス様は自分のために、一生懸命もてなしてくれているマルタを慈しんで言われたのです。マルタがこの時、マリアの姿を見て頭に来たのは、ある意味、当然のことでした。日本でも昔は同じだったと思いますが、当時のユダヤでは、イエス様のようなラビ(先生)の足もとに座ってその教えを聞くことができるのは男性のみとされていたからです。ゲストをもてなすのが女性の役割とされていたのです。しかし、イエス様はマルタのそんな気持ちも十分承知の上で、あえて言われたのでしょう。「必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました」と。その良いほうとは、もちろん、イエス様のみことばを聞くことですね。この出来事は、最初にお話ししましたように、エルサレムへの旅の途中で起こったこととして描かれています。つまり、十字架の時が差し迫っていたということです。周りの人たちは誰もそんなことは思いもしなかったでしょうが、イエス様お一人だけは、ご自分に残された時間がそんなに長くないことをご存じだったのです。41節のイエス様のことばは、そのような切迫感の中で語られたことばだと考えれば、私たちの印象も少し違ってくるのではないでしょうか。私たちの人生というか、毎日の生活も、ある意味、必要なこと、その良いほうを選ぶことの連続だと言えます。そこにどれほどの切迫感があるのかは、人それぞれだと思いますが、自分に与えられた限られた時間の中で、必要なこと、その良いほう選んでゆくということ。本当に大切なことですね。イエス様は弟子たちに、

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」(マタ16:26a)

と言われました。私なんか、全世界どころか、「こんなんホンマに必要なんか?」と、自分でもあきれてしまう時があるのですが、イエス様が言われたように、私たちにとっても必要なことは一つだけであり、その良いほうを選ぶ人生を送りたいですね。

<結論>

マリアはイエス様の足もとに座ってイエス様が語られることばに聞き入りました。その姿が教えてくれていることは、まず一つは、日々の生活の中でみことばの前に立ち、みことばを心に蓄え、暗唱し、祈り、みことばに従うということです。そして二つめは、主イエスの足もとですから、主の十字架のもとに立つ、この私のために十字架にかかってくださった主を見上げつつ歩むということではないでしょうか。そして三つめは、足もとは僕の座る場所です。ですから、みことばを聞いてそのみことばに従う心の準備を常にしている。イエス様こそが自分の主人であるということを忘れないということです。この三つのことこそマリアが選んだ良いほうでした。今朝の最後のことばは、前の訳では「彼女からそれを取り上げてはいけません」と命令形に訳されていました。原典のギリシア語では未来形になっていて、どちらに訳しても間違いということではないのですが、新しい「彼女から取り上げられることはありません」という未来形の訳は、イエス様の約束のように読めますよね。私たちもその約束を信じて、歩んで行きましょう。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF90KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌221番、メッセージ後:新聖歌251番

聖書交読

詩編112篇 1~10節

2025年教会行事


3月19(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2964

Comments are closed