ホストはイエスさま

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<使徒の働き 2章41~47節>
信徒:K

開会聖句

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

<マタイの福音書 18章20節>

メッセージ内容

Youtube動画

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メッセージ原稿を公開しました。
 

<はじめに>  
日の説教は私の一年間のクラスの最後に行った模擬授業のアレンジ版です。クラスでは各自選んだテーマを4回の授業で教えることになっていました。私は「交わり」というテーマを選び、「クリスチャンの交わりって何?」という謎かけにし、その特徴を「その心は」と4回で解いていく形式にしました。私たちが頻繁に使うこのことばは、クリスチャン独特の用語です。一般に使わなくない、でもあまり使われない、教会独自の意味を持ちます。コロナの流行が収束し、教会で食事会や他の集会が復活した時、「交わりが回復した」と多くの人が思い、喜びました。でも、思いました。それなら、極端な話、コロナの間、クリスチャンの交わりはなかったのでしょうか。「交わり」は国語辞典では「交際」、「つきあい」と説明されていました。これは、わかりやすいですね。クリスチャンの交わりとは、クリスチャンとクリスチャンのつきあい、人間関係のこと。では、それはどんな特徴があるのでしょうか。2つの特徴をみていきます。

<本論>
I.縦の交わりと横の交わり
この「交わり」ということばは、ギリシャ語の「コイノ二ア」です。他に「共有」「援助」「参加」と訳されます。コイノ二アは約50回ありますが、交わりという訳は12回。例えば、第1コリント10:16「私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは…あずかることではありませんか。」「コイノ二ア」はどこにあるでしょう?

「交わり」ということばが、最初に出てくるのが今日の聖書箇所です。イエスさまが昇天され、弟子たちは命じられた通りにエルサレムにとどまり、祈りに専念していました。時は五旬節ペンテコステです。エルサレムには遠方から多くのユダヤ人が集まっていましたが、そこで聖霊が弟子たちに下り、聖霊に満たされた人たちが一斉に他国のことばで神のみわざについて語り出しました。その光景に驚き、いぶかる人たちを前に、ペテロは大胆にイエスさまの十字架と復活について解き明かし、罪の赦しのために悔い改めのバプテスマを受けるように勧めました。その結果、ペテロのことばを信じ、バプテスマを受けた人たち3千人が新しく加えられました。エルサレム教会の誕生です。その日から、生まれたばかりの信者たちが集まっていたことが42節に書かれています。

「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」

これが最初の「交わり」コイノ二アです。
44節以降に、具体的な交わりの様子が説明されています。つまり最初の教会員の様子、どんなおつきあいをしていたのか。どんな人間関係を持っていたのかです。

「信者となった人々はみな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて皆に分配し…毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美し…」

使徒たちとはじめからのメンバーに3千人が加えられた大所帯の教会です。一つといっても、教会と言っても建物はなく、信者の提供された家に集まっていたと思われますが、「一つになって、共有し、分配し、パンを裂き、食事を共にし、神を賛美し」とはなんと親密で深い関係でしょう。彼らは礼拝だけでなく生活も共にする生活共同体でした。今も例外として、そういう人たちもいますが、現代ではそこまで一つであることは少ないでしょう。このように、エルサレム教会の交わりは非常に親密なものです。そこには、豊かな人と人との関係、つきあい、交わりがありました。親密で豊かな交わり、それは聖霊のわざから始まりました。

もう一カ所、「交わり」について書かれているのが、ヨハネの手紙第1の1:1~3節です。

「初めからあったもの・・・私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも、私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

この手紙はヨハネがある異邦人教会に送ったもので、このあなたがたとは、間違った教えによって教会をかき乱した偽教師たちが去った後、教会に残された教会員たちです。偽教師とはイエスがキリストであることを否定する者です。その教えに惑わされ、信仰の土台を揺るがされ、救いの確信を失いそうになっている人たちが多くいました。
ヨハネは、この手紙を書くことで、私たちの交わりとは御父と御子イエス・キリストとの交わりですと説明をします。彼ら異邦人は二元論の世界に生きていましたから、目に見える肉体は、汚れ劣っているものでした。つまり、神がそんな肉体を持つ人間になるなんて考えにくかった。しかし、ヨハネは、初めからあったもの、いのちのことばは本当に人間になられた。私はその方の声を聞き、じっと見、手でさわったと証しました。私たちの救いの確信は、御父と御子イエスの交わりに私たちが入れられたことにあると説明したのです。そして、神との交わりに入れられた信者は、互いに愛し合いなさいと命じました。神との交わりは、信者たちの人間関係に広がります。

これらからわかることは、豊かで親密なクリスチャンの交わりは、聖霊のわざから始まります。「互いに愛し合いなさい」という兄弟愛の実践は、神とイエスとの交わりに加えられたことから始まります。つまり、クリスチャンの交わりの特徴は、神との縦の交わりがあって、人と人との横の交わりに広がっていくことで、この交わりの主催者ホスト(招く人)はイエスさまだということです。そして、ホストであるイエスの考え、願い、クリスチャン用語で「みこころ」が、人と人との交わり、関係に反映されていきます。まとめますと、クリスチャンの交わりの特徴の1つめは縦と横の交わりがあること。2つめはその交わりには「みこころ」が反映されていくことです。

II.ホストのみこころのままに

「クリスチャンの交わりとかけて何と解く」「まな板の上の鯉」と解くの出番がやってきました。この2つには「誰かの心のままに」という共通点があります。「まな板の・・・」はよく使われることわざです。絵にあるように、相手のなすがままになるより他どうしようもない状態、相手に任せるしかない状態を指します。先ほどまで生きのよかった鯉は、今や板前さんの手の内にあり、彼の心のままに彼の思いどおりの料理になります。お客さんが「鯉のあらい」が食べたいと言えば、3枚におろされ、身は薄く刺身(ふぐの倍)のように切られ、42度のお湯で洗われ、氷水でしめられ、器に盛られます。煮付けがいいと言われれば、皮、うろこ、内臓もそのままで筒切りにされ、柔らかく煮込まれます。有名なのは「鯉こく」という長野県の郷土料理で、滋養があるそうです。まな板の上の鯉は、このようにお客の注文に応じる板前さんの心のままにさばかれます。

クリスチャンの交わりは、板前さんではなく、キリストの御手の中で、「みこころのまま」に、変えられていきます。この方は

「御子はそのからだである教会のかしら。」(コロ1:18)

ですから、このみこころとは「教会」というキリストのからだの形成です。イエスさまを信じた人は次々に教会の交わりに入れられ、励まし励まされ、教え教えられ、互いに仕えていくことで、信仰生活を続けます。この交わりによって、クリスチャンは育てられますから、クリスチャンの交わりは、私のためでもあるけど、兄弟姉妹のためでもあります。互いの存在が必要不可欠なのです。
しかし、違いもあります。鯉は鯉のぼりになるくらい勢いのある魚で、板前さんはさばく時にジタバタされると困るので、鯉のある部分を包丁でなでて、気絶させます。つまり、この鯉は強制的にじっとさせられた!しかし、ホストイエスは私たちの自由意志を取り上げたり、軽んじたりはされません。クリスチャンの交わりは「ねばならない」というものではなく、自発的な参加です。「こいこい言うからコイノ二ア」と、親父ギャグを教えてもらいましたが、確かに私たちは熱心に誘いますね。でも、人には言いにくい個別の事情があり、参加に積極的な気持ちの時もあれば、消極的な時もあります。どうしたら?そのへんの加減は難しいですが、目に見える交わり、教会での交わりだけがクリスチャンの交わりではありません。例えば、直接的な励ましもあれば、その人が神さまの前に出るように祈ることも励ましです。クリスチャンの交わりは、神との交わりであったはずです。

伝道者の書4:12「三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

人との交わりが薄くなる時が訪れても、そう簡単にクリスチャンの交わりは切れないのではないでしょうか。

<おわりに>
今日の開会聖句は、

マタイ18:20「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいます。」

これは、祈祷会のことではなく、教会のことです。イエスの名において集まる人間関係であり、そこではキリストへの愛のわざが兄弟に対してなされます。まだ完成を目指しているキリストのからだですから、私たちの交わりがイエスを悲しませることも多くあります。しかし、イエスの名において集まるところには、イエスが共におられることをいつも覚えて、主に喜ばれる人間関係、交わりをつくっていきたいですね。そして、クリスチャン同志だけでなく、クリスチャンが関わっていく人間関係も、その延長でありたいと思います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF149KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌22番、メッセージ後:新聖歌143番

聖書交読

詩編111篇 1~10節

2024年教会行事

集会はお休みとなります。

#57-2963

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