なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ルカの福音書 7章36~50節>
牧師:砂山 智
今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。
<ルカの福音書 6章21節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:3/2 PM 10:08
メッセージ原稿を公開しました。
「ルカ」からの二回目です。
<本論>
1. パリサイ人シモン
今朝の物語の舞台はパリサイ人シモンの家です。パリサイ人と言えば、福音書ではイエス様の天敵のように描かれることが多いのですが、今朝の話では、シモンは「一緒に飯でもどうですか?」とイエス様をお招きし、ともに食卓を囲んだんですね。少し前の34節を見ると、
『人の子が来て食べたり飲んだりしていると「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言われます』(ルカ7:34)
と、イエス様はご自分のことを言っておられますので、取税人であれパリサイ人であれ、相手がどんな人でも、招かれたら断らなかったのでしょう。それどころか、同じ「ルカ」の19章のザアカイの話では、木の上から自分を見ていたエリコの町の取税人のかしらザアカイに「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言ってザアカイの家に行かれたことが記されています。そんなことも度々あったのではないでしょうか。もちろん、それはザアカイを救うためでしたが。
皆さんは「食客(しょっかく)」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか?中国の春秋戦国時代(BC5~1世紀頃)に広まった風習で、時の有力者たちが才能のある人物を客として遇し養う代わりに、何かあった時には助けてもらうという。多くの食客を養う有力者は尊敬されたそうです。ユダヤも中国も同じアジアですから、それと近いことが見られたでしょう。イエス様の時代、シモンのような「ラビ」の家には、花壇と泉が設えられた中庭があって、そこで食事をすることが多く、その際にはあらゆる階層の人々が自由に出入りし、ラビの教えに耳を傾けることができたそうです。ですから、今朝の物語の罪深い女と呼ばれるような人でも、そこにいることができたのですね。そして、イエス様のような招待客(ゲスト)には、通常、三つの事がなされたそうです。その一つは、家の主人(ホスト)はそのゲストの肩に手を置き平安を祈る意味の接吻をした。それは相手への尊敬のしるしであり、偉いラビを招いた場合には欠かしてはならないことだったそうです。そして二つ目は、冷たい水を用意してゲストの足の汚れを洗った。これは日本の時代劇などでも見られます。昔の道路事情や履物のことを想像すれば、ご理解いただけるかと思います。そして三つ目は、少量の香料が焚かれるか、香油を一滴、ゲストの頭の上に注いだ。この三つの事は、言わば当時のユダヤの礼儀作法のようなものだったと思われますが、今朝の物語の後半でイエス様が指摘しておられるように、シモンは、あえてそのような礼儀を欠く迎え方をしたのです。ある本に次のように書かれていました。
「シモンは名士を集めるのが趣味だったのだろう。恩着せがましい下心もあって、華々しくデビューしたこの若いガリラヤ人を食事に招いたのであろう。一定の尊敬が払われながら肝心の礼儀作法が抜けているという、このアンバランスも、それでよく説明がつく。シモンという人間は、要するに、イエスに勿体をつけたかっただけなのである。」
つまり、シモンがイエス様にしたことは、「慇懃無礼」と言うか、ただの「売名行為」でしかなかったということでしょう。
2. 罪深い女
一方、罪深い女と呼ばれる女性はどうだったかというと、彼女は香油の入った石膏の壺を持って来てイエス様の足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけして香油を塗った。今の私たちにはなかなか想像しにくい情景ですが、当時のユダヤ女性には、香油の入った小さな壺(雪花石膏・アラバスター)を首につける風習があったそうです。そして、それはたいへん高価なものでした。彼女はそれをイエス様の足に塗ろうと思ってその足もとを見ているうちに、涙がとめどなく溢れて来たのでしょう。その涙は懺悔の涙であったか、感動の涙であったか、それは分かりませんが、本当になんの計算も駆け引きもなしに、思わずやってしまったということだったように感じます。当時のユダヤの女性は人前に出る時には必ず髪の毛を結びあげていたそうですが、彼女は、その結びあげた髪の毛をほどいて、自分の涙で濡れたイエス様の足をぬぐったのです。この時、彼女がイエス様にしたことは、まさに常識外れで破廉恥な行為と非難されてしかるべきことでした。しかし、それがイエス様になしうる、彼女ができる精一杯のことだったのでしょう。
3. 一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ
その後のイエス様のたとえに出て来る借金をした二人の人というのは、もちろん、今朝のパリサイ人シモンと罪深い女を指しています。イエス様は、その分かりやすいたとえを用いて二人の対照的な心の有様をくっきりと浮き彫りにされました。それは、赦されること、言い換えれば愛されることへの渇望感の違いと言ってもいいかもしれません。シモンには何の渇望感もありませんでした。彼は、自分は神の前でも人の前でも善人、正しい人間だと自負していました。だから彼は、自分は愛されて当然の人間だと、誰かに愛されることに、そして誰かを愛することにも価値も感じなかったのでしょう。しかし、罪深い女には赦されること、愛されることへの強烈な渇望感がありました。彼女がなぜ、そんな風に呼ばれるようになったのかは分かりませんが、その強烈な渇望感が彼女をイエス様の下に導き、常識外れの行動へと駆り立てたのです。
だいぶん以前になりますが、同じ「ルカ」の11章に出て来るイエス様の分かりにくい話から、「掃除された家」と題してお話ししたことがありました。
『「汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」』(ルカ11:24~26)。
私はある方の解説を読んで目から鱗だったのですが、パリサイ人は、信仰に純粋に生きようと、きちんと律法を守っていたけれども、一番肝心なことを見落としていた。それは、そのように自分の信仰を守ってくださるのはともに働いてくださる神であるのに、自分の力、自分の熱心さで、一生懸命信仰を純粋に守ろうと、そうできていると自負していた。したがって、彼らの心を支配していたのは、汚れた霊を追放して入ってくださった聖霊ではなく、「自分の思い(エゴ)」であり、その意味で、彼らは前よりもっと悪い状態、まさに信仰の「空き家」のような状態であったのだと。
私たちは「空き家」ではありません。そのようにイエス様はしてくださったのです。つまり、神はともにいてくださって、その恵みで満たしてくださった。今も満たしてくださっているのです。しかし、パリサイ人たちには、きちんとした生活はありましたが、神への心からの感謝はありませんでした。人生への感動もなく、信仰を持っているつもりで、信仰もなかったのです。代わりに彼らにあったものは、自分の整った生活を誇り、人を見下すエゴでした。だから、彼らは普通の人よりもっと悪いのです。
<結論>
今朝のタイトルは「泣いている者の幸い」ですが、幸いかどうかはその人の心が決めることで、はたから見て、「あの人は幸せだろうなぁ」と思っても、ご本人はそう思っていない場合もあるでしょうし、その逆もあるでしょう。最近、改めて思わされていることですが、私たちのこの世界は取引の世界で、人を出し抜くことに喜びを覚える世界だなぁと。私もその一人かもしれませんが、イエス様が言われた「幸い」というのは、そういう幸いではないですよね。結局、泣いている者の幸いとは何かというと、今朝の罪深い女がそうであったように、私たちが泣きながらイエス様に近づくとき、イエス様はそのままで受け入れてくださり、罪を赦し、「安心して行きなさい」と励ましてくださる。だから、今泣いている者は幸いなのです。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌384番、メッセージ後:新聖歌386番
聖書交読
詩編111篇 1~10節
2025年教会行事
3月5日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)
#57-2962