恥と不安とあなたのせい

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 3章8~24節>
信徒:K

開会聖句

しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。

<ローマ人への手紙 5章20節後半>

メッセージ内容

Youtube動画

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メッセージ原稿を公開しました。
 

<はじめに>  
今日のタイトルは、1992年にヒットした平松愛理さんの「部屋とYシャツと私」という曲名をもじりました。この曲は、平松さんが友人に結婚式に一曲歌ってほしい、と言われたことがきっかけで生まれた曲で、題名の3つのことばは、当時の女性が結婚したら変わるものの代表的なものを表したそうです。住むところ、夫のYシャツを洗うこと、名字。Yシャツはサラリーマンの代名詞。結婚で名字が変わることがすんなり受け入れられている時代。平成4年、まだ昭和が残ってます。
一方、今日のタイトル「恥と不安とあなたのせい」 これは罪を犯した人間に起こった変化、味わうことになった変化です。食べてはいけないという一つの約束を破り、禁断の木の実を食べてしまった男女は、裸であることを恥ずかしいと思い、不安になって腰をイチジクの葉で覆って隠しました。「恥と不安」です。そして「あなたのせい」、それは今から読んでいくところです。ぽっくりは死ななかったけれど、肉体の死より先に、神から離れることで生じる霊的な死がもたらす苦しみを味わうことになりました。今日の主題は「神に背いた結果」です。人間の側に起こったこと、そして神さまの側に起こったことの2つを見ていこうと思います。

<本論>
I.罪を犯した人間は労苦と葛藤の多い人生を引き受けなければならなくなった
8~10節「そよ風の吹く頃、彼らは神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は…身を隠した。…『あなたはどこにいるのか』…『…私は裸であるのを恐れて、身を隠しています。』」 彼らは神が造り、よしとされた自分のありのままを恥ずかしいと思いました。男と女は違った者に造られたのに、その個性や違いを恥ずかしいと思ったんです。目が開かれた途端、比較が始まった。私たちの不幸の原因は往々にして人と比べることにありますよね。更に、糸の切れた凧のようにつながりを失い、心に穴があいたかのように不安を感じました。神がよしとされることに満足できない、何か足りないと思うようになった。これも目が開かれて。

神は呼びかけます。

11節「『あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、…食べたのか。』」

彼は、神のこの二つの質問には答えず、

12節「『私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」

と、神への不従順を女のせいにして、自己弁護に必死です。神は女に言われます。

13節「あなたはなんということをしたのか。」

女も人に倣いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで…」 助け合うための二人であったのに、今や、素直に自分の非を認めず、「女のせい」「蛇のせい」つまり「あなたのせい」と責任転嫁することに夢中です。もっとひどいことに、人は、「私のそばにいるようにと、あなたが与えてくださったこの女が…」と、神にも責任の一端を担がせてます。私の骨の骨、肉の肉と、人に歓迎された女は「この女」と呼ばれてしまいました。

神はこの三者に、それぞれの罪に対する裁きを宣告します。
14~15節 蛇は一番呪われた生きものとなり、地を這い回り、ちりをたべ、将来、女の子孫にその頭を踏みつけられます。これは、イエス・キリストの預言だと考えられています。ここには、神と人とを引き離す罪に対しての、神の激しい怒りが込められているのです。へびは、ほかのどの生き物よりも賢かったから、どれよりも呪われる生き物に転落です。
16節 女性に対しては「苦しみとうめきを大いに増す」。以前の訳では「産みの苦しみ」と限定されてましたが、それだけではなく、肉体的な弱さと、「苦しんで子を産む」、「また、あなたは夫を恋い慕うが…支配する…」というのが、苦しみとうめきの内容だと思います。出産は苦しみを伴います。そして、男女という違いを持った同志の互いにという横並びの関係に、支配という上下の要素が入ってくるのです。ここは男が女を支配してよいという考えの根拠とされそうですが、これは罪の裁きの結果の状態です。本来の神の計画であった、互いが助け手という横並びの人間関係に歪みが生じてきます。これは女性にとっては苦しみであり、男性にとっても大きな損失です。人間の幸いは他者を支配するのではなく、共に生きることで、実現するのですから。
17~19節 人に対しての裁き。 最初に聞き従うべき相手を間違ったことが指摘されます。妻(人間)は話し合う相手でしたが、人は神の声を聞くべき存在でした。それゆえに大地はのろわれ、人に対してあざみと茨を生えさせるので、人は苦しみ、顔に汗して、食べ物を得なければならなくなります。喜びであった労働は苦しみに。そして、不安と恥と労苦の人生は、「ついには、大地に帰る。あなたはそこから…。あなたは土のちりだから、土のちりに帰る。」という結末になります。人はここで、肉体の死を宣言されました。モーセもこう祈っています。

詩篇90:9~10「…私たちのすべての日は あなたの激しい怒りの中に消え去り、私たちは自分の齢を一息のように終わらせます。私たちの齢は70年、健やかであっても80年。そのほとんどは労苦とわざわいです。・・・」

神に背いた結果、人間に起こったことは、人は限りのある地上の人生と、労苦と葛藤の多い人生を引き受けなければならなくなったことです。罪を犯せば裁きがあるのです。しかし、恵みもあるのです。この後、後半は創造主の恵みがあふれていますので、読み進めましょう。

II.神は私たちの不安な人生の現実に同伴してくださることを決心された

20節「人は妻をエバと呼んだ。彼女が生きるものすべての母だからであった。」

と書かれてますが、「必ず死ぬ」と宣告された人間ではあるけれど、

1:28「生めよ、増えよ…支配せよ。」

と祝福は続きます。さばきの箇所に「のろい」ということばが2度ありました。何に対して。ヘビと大地です。人間には裁きはあっても「のろい」のことばはありませんでした。むしろ、初めの祝福は継続中です。

21節「神である主は、アダムとその妻のために…。」

二人はせいぜい、そこにあったイチジクの葉をつづり合せて、自分の恥を隠すことしかできなかったけれど、神は丈夫な皮で衣服をつくって着せられました。彼らは特別仕様の快適な住まいであるエデンを追放され、過酷な現実社会で生きていくことになりますから、彼らのこれからを心配して、自分たちでは作れない、丈夫で耐久性のある衣服を備えてくださいました。

22~24節「…人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。…人をエデンから追い出し…いのちの木への道を守るために…置かれた。」

人は善悪の知識の木ではなく、いのちの木の実を食べることもできました。園の中央には2つの木があって、一つは禁じられていなかったのです。しかし、今となっては駄目です。神のようになったのだから。神から離れた不完全な姿で永遠に苦しんで生きることがないように、神はそのアクセスを断たれました。彼らをエデンから追放し、いのちの木を守るために、ケルビムと炎の剣を置かれたのです。

私はこの最後の24節を読んだとき、自分の昔の引っ越しの場面を思い出しました。皆さんは、引っ越しの経験どうですか。業者に全部頼めば違うかもしれないですが、すべての家財を出した後、最後の掃除をし、懐かしい思い出に少し感傷的な気分になりながら、最後の戸締まりをし、次に向かいました。最後のエデンへの通路を遮断された神の姿がそこに重なります。エデンの話はこれ以降出てきません。それは神もそこにはおられないということです。思い出の詰まったエデン、神が心を込めて人間のために造られた場所を、今、神は、人が二度と戻れないように閉じられ、自らも出られたのです。新しい人間の旅立ちに同伴するために。神は罪を犯した人間を投げ出したり、知らんぷりすることはされません。人が罪を犯した結果、神はご自分もその不安の多い人生に同伴することを決心されました。これは、今もつづく現実です。
前半は厳しいさばきの宣告でしたが、後半は神の恵み、思いやりがあふれていたでしょう。今日の開会聖句は、

ローマ5:20「しかし、罪の増し加わるところに、恵み満ちあふれました。」

有名ですね。この恵みはイエスさまの犠牲によってもたらされた恵みのことですが、エデン追放以来、覚悟を決めた神は私たち人間とともに歩んでくださっています。相変わらず、罪は繰り返され、「罪に満てる世界」が加速しています。しかし、イエスの来臨と十字架のわざによって、恵みも満ちあふれ、今もそうです。神はどこまでも、私たちが生きることを応援していてくださいます。

<おわりに>

「恥と不安とあなたのせい」という罪の結果の三点セットで始めたので、最後もそうします。聖書を読んだ結果知る、私の三点セット。「神のかたちである私」「土のちりである私」「神に愛されている私」です。最近、「私は土のちりです」ということばが私のブームです。それは、自己卑下ではなく、高ぶりやすい自分が高ぶらないで、今日のすべて、守られたこと、楽しかったこと、いやだったこと、うまくいったこと、いかなかったこと、すべての営みが神からのものであることを自覚するためです。この一週間も、これらを覚え、謙虚にまた喜んで、人と人の間で生きましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF95KB)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌11番、メッセージ後:新聖歌376番

聖書交読

詩編110篇 1~7節

2024年教会行事

2月26日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時 

#57-2961

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