目を留めてくださる神

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ルカの福音書 1章1~7節>
牧師:砂山 智

開会聖句

しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。

<ルカの福音書 1章24、25節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「ルカ」の著者ルカは、パウロの親友であり、同労者であり、医者でした。さらに、これは伝承なんですが、彼はアンテオケ出身で、画家でもあったようです。また、新約聖書の著者のほとんどがユダヤ人であるのに対して、彼は異邦人でした。そして、今朝の冒頭の1,2節から分かることは、彼はキリストの生涯についての直接的な目撃者ではなかったということです。「使徒」やパウロが書いた手紙には、ルカがパウロの第二次伝道旅行からパウロと行動を共にし、パウロが殉教する直前まで彼の側にいたということが書かれています。ただし、その後のルカの消息については不明です。

<本論>
1. 聖書解釈の基盤はキリスト

聖書の時代の医者は、今のお医者さんとは少し違うかもしれませんが、その時代における知識人であったということは言えるでしょう。それは、今朝のテキストの最初の1~4節までの原文(コイネーギリシア語)が、ギリシアの古典の歴史書の序文にも比べられるような、美しい詩的リズムの、文法的に切れ目のない一つの文章として綴られていることからもうかがえます。そして、ルカが本書で書き残したかったことは、

『私たちの間で成し遂げられた事柄』(ルカ1:1,2a)

でした。それは言い換えれば、「すでに成就した出来事」ということです。福音書というのは、イエス様のご生涯の記録、言わば伝記なんですが、それこそが旧約聖書の預言の成就だということですね。
皆さんもよくご存じのように福音書は四つあって、それぞれに特色があり、例えば「マタイ」などはユダヤ人を読者として想定して書かれており、イエス様が旧約において預言されていたメシアであるということが強調されている、とよく言われます。ただ、「ルカ」も、旧約聖書からのハッキリとした引用は30箇所以上あり、旧約聖書が言及されている箇所だけでも数百箇所に及びます。ですから、ルカは異邦人ではありましたけれども、旧約聖書に精通しており、その解釈において非常に優れた洞察力を持っていたことは間違いないでしょう。ルカはイエス様の宣教のあらゆる場面で旧約聖書に言及し、その出来事の意義深さを説明しています。それは、福音書の最後にあるエマオ途上の場面を見ればよく分かります。復活のキリストは、暗い顔で少し前にエルサレムで起きた出来事について話す二人の弟子に次のように言われました。

『「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた』(ルカ24:25b~27)。

今、読んだ中の「聖書全体」というのは、もちろん「旧約聖書全体」ということです。イエス様は旧約聖書の一部だけを成就されたのではなく、すべてを成就されたのです。私たちの教団の信仰告白の第二部、「日本メノナイトブレザレン教会はいかに神の目的に応答するか」には、「日本MB教会は聖書の民である」とあり、そこには「聖書解釈の基盤は、新約聖書に示されたキリストである。それは、イエスの生涯・死・復活を通して明らかにされた神の価値観に基づいて聖書を解釈することである」とあります。今月の「よきおとずれ」の巻頭言で笹田先生も、私たちメノナイトはキリストの弟子として生きることを何よりも大切にしてきたと書いておられました。そのように生きること自体が、私たちにとっての聖書解釈なんですね。

2. 天に宝を積む

そして、3節の『テオフィロ様』ですが、この名前は「使徒」の最初にも出てきます。テオフィロとは「神に愛されている人」「神の友」という意味なのですが、この人物が実在の人物であったかどうかについては議論があります。学者の中には、ルカは、この二つの書簡を、ローマ政府の高官でクリスチャンであった人物に、或いはクリスチャンに好意的であった人物に宛てた手紙という体裁で書いたのではないか、と考える人もいるようです。パトロン(後援者・支援者)ということばがありますが、印刷技術もなく、紙自体がとても貴重なこの時代に書物を作るというのは、大変な費用のかかることだったと思われますので、このテオフィロという人物が、もし実在の人物であったとすれば、ルカにとってはパトロンのような存在であったのでしょう。先日、テレビで、宝塚市の70代のあるご夫婦が、254億円を市に寄付されたというニュースが流れていて、その金額の大きさに驚くとともに、とても立派なお金の使い方だなぁと思わされたのですが、ある本に、「日本人の多くは死ぬときに一番多くのお金を持っている」と書かれてあったことを思い出しました。もし、「ルカ」や「使徒」がテオフィロの援助を基にして書かれたのだとしたら、それこそ天に宝を積む、立派なお金の使い方だったと言えるでしょう。

3. 正しい人
そして、5節以降が、言わば「ルカ」の本文、ルカが描くイエス様のご生涯の始まりなんですが、その最初の登場人物がザカリヤとエリサベツです。この二人は、四つの福音書の中でも「ルカ」にしか出てきませんので、その中から知る以外にないのですが、今朝の箇所で特に気になったのが6節のみことばでした。

『二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた』(ルカ1:6)。

ザカリヤは祭司で、妻のエリサベツはアロンの子孫であった、とありましたが、これは当時のユダヤ社会では、とても由緒正しいと言うか、特権階級的な立場にいたということを示していると思います。そして、二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。しかし、7節。

『しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた』(同1:7)。

どうも、この7節の「しかし」ということばには、当時の信仰の常識、そして、今の私たちの常識、願いが込められているように思えます。それは、この二人のような正しい人、正しい行いをした人には、必ず良い報いがあるはずだという。私たちは、天災であれ、人災であれ、病気であれ、苦しみの原因が分からないとき、今の苦しみに意味を見出せないとき、苦しむんですね。「こんなに熱心に祈っているのに、なぜ神は聞いてくださらないのか」という。遠藤周作は、そのことをテーマにして、あの「沈黙」という小説を書いたのですが…。とても重たいテーマです。しかし、しかしです。あのパウロが「Ⅱコリント」で書いているように、苦しみの中で祈って、祈って、祈ったときに、何か心に響いてくると言うか、聞こえて来る声があるのではないか、と思うのです。それは、パウロの場合には、

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリ12:9)

という声であり、今朝のゼカリヤの場合には、

「恐れることはありません、ゼカリヤ。あなたの願いは聞き入れられたのです」(ルカ1:13)

という声であり、遠藤周作の「沈黙」では、「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。私はお前たちに踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」という、あのロドリゴ神父が聞いた声だったのです。

<結論>

大切なことは、自分の願いが聞き入れられたか、聞き入れられなかったかということではなく、それぞれへの神からの語りかけを通して、主は今このようにして私に目を留めてくださった、と気づくことではないかと思いました。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF105KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌216番、メッセージ後:新聖歌248番

聖書交読

詩編108篇 1~5節

2025年教会行事


2月12日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)

#57-2959

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