なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ヨシュア記 8章18~29節>
牧師:砂山 智
開会聖句
ヨシュアはアイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し出した手をもとに戻さなかった。
<ヨシュア記 8章26節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開をいましばらくお待ちください。
メッセージ原稿を公開しました。
・だいぶん以前になりますが、武田師が「ヨシュア」について言っておられたことを思い出しました。「ヨシュア記からメッセージを語るというのは、絶対平和主義を掲げる我々MBの牧師にとって、困難というか、チャレンジを覚える時だと思います。だから、どうしても霊的解釈ということになってしまうのですが…」。今朝の物語なんか、まさにそんな箇所だと言えるでしょう。特に今、ウクライナやパレスチナでの戦争が続いているような状況において、私たちが心しておかなければならない大切なことがあるように思えます。それは、聖書に書かれている物語は、あくまでも神がご自身の約束を実現するための、神の贖いの計画に基づいた特殊な出来事だということです。ですから、例えば今朝の「ヨシュア」を例にとって聖戦思想を振りかざすようなことは、今のいかなる国にも許されてはいません。もちろんイスラエルにもです。今は平和の福音を宣べ伝える時であり、国と国、民族と民族が領土や資源を巡って争うことは、神の贖いの計画とは全く無関係であるどころか、新約の恵みの時代に生かされているキリスト者の倫理に明らかに反する行為と言えるでしょう。このことは、まず、はっきりとしておきたいと思います。
<本論>
1.最初の敗北
さて、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、カナンにおける最初の関門であったエリコの町を攻め落とします。先週お話ししたラハブの物語も含めて、とても有名な物語です。6章にその話が載っていますが、まさに「勝ちに不思議の勝ちあり」という言葉通りの勝利でした。ヨシュアは神に命じられた通りに七人の祭司たちと武装した戦士たちに隊列を組ませ、主の箱をいただきながらエリコの町の周りを一日一周、回らせます。そして、それを六日間続けさせた後、七日目には七周回らせ、その七周目に祭司たちが角笛を吹き鳴らし、民がときの声をあげると、あの堅固に見えたエリコの町の城壁が崩れ落ちるんです。それはまさしく人間の業ではなく神の業であり、あの出エジプトの時と同じような驚くべき奇跡が起きたのです。そして、その後、彼らが向かったのが、ベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイという町でした。しかし、イスラエルは、このアイ攻略で惨めな敗北を喫します。7章にそのことが書かれています。それは、エリコでの大勝利の際に起きたことに原因がありました。
『しかし、イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った。ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶の物の一部を取った。それで、主の怒りがイスラエルの子らに向かって燃え上がった』(ヨシュ7:1)。
アイという名前は「廃墟」という意味だそうですが、事前にアイの町を偵察してきた部下は、ヨシュアに
「彼らはわずかですから、民をみな送って骨折らせるには及びません」(同7:3)
と報告していますので、エリコでの勝利が、彼らの心に油断というか、慢心を生じさせたということもあったと思います。このアイでの敗戦の後、アカンの罪は皆の知る所となり、彼はアコルの谷というところで石打ちの刑に処せられます。今朝のアイ攻略の話は、その後のことですので、言わばヨシュアとイスラエルにとっては再チャレンジということになるわけです。ですから、以前には感じなかったような不安もあったのではないかと思います。人間的に見れば、状況は以前と少しも変わっていないのですから。そんなヨシュアを神は次のように励まされるのです。
2.恐れてはならない
『「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民をすべて率い、立ってアイに攻め上れ。見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えた』(同8:1)。
神は、「見よ、わたしはアイの王と、その民、その町、その地をあなたの手に与えるであろう」とは言われずに、「あなたの手に与えた」と言われます。それはあのエリコの町を攻め落とした時も同じでした。
「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した」(同6:2)。
それはある意味、「賭け」と言えるかもしれませんが、主の戦いの大原則、勝利の秘訣は、私たちが主の約束を信じて進むかどうかにあるのです。
「ヨハネ」の11章で、イエス様は、死んで葬られたラザロの墓が石でふさがれているのをご覧になって「その石を取りのけなさい」と言われました。しかし、ラザロの姉妹のマルタが「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから」と言って、イエス様のみことばに従わなかった時、次のように言われたんです。
「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」(ヨハ11:40)。
そこで彼らは石を取りのけ、ラザロのよみがえりの姿、神の栄光を拝する者となったのです。
3.神に委ねるとは
今朝のヨシュアも、先程の主のみことばに励まされて、三万の勇士を選んでアイ攻略へと遣わした、と記されています。前回の時は僅か三千人でしたから、実に十倍の兵力です。そして、今回は、特に入念に作戦を練って準備をしたことが記されています。「地図で学ぶ聖書の歴史」のP45に、その時のイスラエル軍とアイ軍の動きが図入りで解説されていたのですが、イスラエル軍の主力は囮となって、敵を町から誘き出し、その隙に、ひそかに配置していた伏兵が空っぽになった町に突入して町を焼き払うという。そして、それを見て慌てて町に戻ろうとするアイ軍を挟み撃ちにしてしまうのです。エリコの時とは全く正反対とも言えるやり方ですが、これも、よく言われることですが、「神様、どうぞ受験に合格しますように」と熱心に祈っても、祈るだけで、全く勉強しなかったら、それは合格することはできませんよね。神様にお委ねするというのは、そういうことではないですよね。私たちにできること、委ねられていることは、精一杯、果たした上で、結果は神様にお任せすることが大切なんですね。私なんかがお話しするまでもないことですが。
<結論>
そして、最後に、今朝の開会聖句ですが、ヨシュアはアイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し出した手を元に戻さなかった。このヨシュアの姿は、「出エジプト」17章のアマレクとの戦いにおけるモーセの姿と重なります。その時、ヨシュアはまだ若く、軍を率いていたのですが、丘の頂でモーセが神の杖を持った手を高く上げているときはイスラエルが優勢になり、手を下すとアマレクが優勢になったという。最終的に、側にいたアロンとフルがモーセの手をしっかりと支えたので、イスラエルはアマレクに勝利したわけです。ある牧師が、この物語について、神は私たちが祈るとき、その祈りを聞いて助けてくださるということではない。聖書が証しする神は祈った者はお助けになるが、祈らない者は敵の意のままにされるというような方ではない、と述べた上で、モーセが掲げた神の杖、これこそ彼が神から与えられた唯一のものであり、それは神が彼と共にいましたもうという約束のしるしであった。彼はただそのことに信頼して、エジプトを出て、今荒野にある。祈りは神への信頼、神への全き服従から生まれてくるものである。祈らずにはおれない状態に立つ者だけが祈ることができるのだ、と述べておられました。
今朝のヨシュアの投げ槍も全く同じだと思います。それは簡単なことではありませんが、その牧師はさらに、主は「天に宝を蓄えなさい」とすすめておられる。少なくとも、私たちが地上の銀行にその宝を蓄えるほどの熱心さを持って、天に宝を蓄えようとするとき、「天」が新しい問題となってき、なおそれを乗り越えて、宝を蓄えようとするとき、私の手は自然に上にあげられるものである。要はここに立つか否かである、と書いておられて、本当にそうだなぁと思わされました。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌398番、メッセージ後:新聖歌458番
聖書交読
詩編104篇 24~35節
2025年教会行事
1月15日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)
#56-2955
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