神を讃美すること

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<詩編 116篇1~19節>
牧師:砂山 智

開会聖句

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

<詩編 118篇29節>

メッセージ内容

Youtube動画

 

公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:1/4 PM 8:30
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・今日は今年最後の礼拝ですが、12月の第一週から「神を知ること」「神を礼拝すること」「神を待ち望むこと」と題してお話ししてきました。今朝はそのシリーズの最終回、「神を讃美すること」です。

<本論>
1.私は主を愛している

詩篇113~118篇は「ハレルヤ詩篇」と呼ばれ、「主をほめたたえよ」、つまり「神を讃美すること」が主題となっています。これらの詩篇は、国民の祝日に神殿で祭司と合唱隊が、ちょうど今の交読文のように交互に歌った歌であると伝わっています。そして、今朝の116篇は「感謝の詩」と呼ばれているのですが、それは神への「感謝の祈り」とも言えるでしょう。

『私は主を愛している。主は私の声 私の願いを聞いてくださる』(詩116:1)。

この最初のことば、「私は主を愛している」ということばがとても印象に残りました。祈りの冒頭で、「主よ、感謝します」「聖なる御名をほめたたえます」と祈ることはあっても、このように祈ったことはないような気がします。私は主を愛していると心では思っていても、なかなか口に出してまでは祈らないですね。よく言われることですが、日本人、特に壮年の男性は愛情表現が下手と言うか、シャイと言うか。自分自身を見ても、本当にそうだなぁと思わされます。それは例えば、礼拝のスタイルの好き嫌いなどにも関係があるかもしれません。カリスマ派とかペンテコステ派などの礼拝で、よく「ハレルヤ!」と叫んで手を挙げて祈っている人たちの姿なんか見ると、なんか、こっぱずかしいような気分になってしまう時があるんですね。しかし、表現の仕方は様々であっても、まず「私は主を愛している」ということばから始まる讃美や祈りを、主は何よりも喜んでくださるのではないか、と思います。
イエス様は、「マタイ」12章の、所謂「安息日論争」で、当時の律法では禁じられていた行為をした弟子たちを非難するパリサイ人に向かって次のように言われました。

『あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です』(マタ12:6~8)。

イエス様は、それまでの律法の世界、人間が自らの努力で神の御前で正しくなろう、否、なれるとする世界から、もはやそのようなことが必要のない世界が来たと告げるために人となって来てくださいました。しかし、私たちはそれでもなお、私たち人間の熱心とか、愛とか、それを神はご覧になって喜ばれ、そして祝福が来る、と思ってしまいやすいんですね。けれども、そうではなくて、ご自身を指して「宮よりも大いなるもの」と呼ばれたイエス様が来てくださった以上、もはや律法の世界は過ぎ去り、その大いなる方のみこころだけを求めてゆく。それが新約の時代、恵みの時代に生かされている私たちにふさわしい生き方であり、「私は主を愛している」ということなんだと思うのです。

2.主の聖徒たちの死は

そして、今朝の詩篇の冒頭のことば、「私は主を愛している」の後をずっと読んでいくと、この詩人がなぜ、そのような告白をするに至ったかということが分かります。3節と4節を読むと、彼が死の恐怖、いのちの危機に直面していた、ということが伺えます。その危機の具体的な内容までは分かりませんが、しかし彼は、5節以降で次のように歌うのです。

『主は情け深く 正しい。まことに 私たちの神はあわれみ深い。主は浅はかな者をも守られる。私がおとしめられたとき 私を救ってくださった。私のたましいよ おまえの全きいこいに戻れ。主が おまえに良くしてくださったのだから。まことに あなたは 私のたましいを死から 私の目を涙から 私の足をつまずきから救い出してくださいました。私は生ける者の地で 主の御前を歩みます』(詩116:5~9)。

旧約における死に対する一般的な理解、見方というのは、単に肉体が消えて無くなってしまうということだけでなく、死は神との交わりが断たれた状態、言わば神の呪い、怒りのしるしであるということですので、この時の彼の喜びというのは、単にいのちが助かったという喜び以上のものがあったのだと思います。そして、興味深いのは、その少し後の15節のみことばです。

『主の聖徒たちの死は 主の目に尊い』(同116:15)。

これは、この詩人のうちで、死に対する見方自体が変化したことを示しているように思います。私たちは、どんな人であれ、どれだけ権力があっても、どれだけお金を持っていたとしても、また、どれだけ素晴らしい行いをした人であったとしても、死から逃れることはできません。また、イエス様も言われたように、私たちはどれだけ心配したとしても、少しでも自分のいのちを延ばすことはできません。しかし主は、そんな死であっても、ご自分の民の死は尊いと言ってくださるのです。「イザヤ」43章4節に、

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザ43:4a)。

とありますけれども、それは、私たちが生きている間だけでなく、今まさに死のうとする時、夕日が沈むように私たちのいのちが消えてゆくその瞬間でさえ、主は変わらず、「わたしの目には、あなたは尊い。わたしはあなたを愛している」と言ってくださるのです。そのことを悟った人は、今朝の詩人のように、たとえ死の床にあったとしても神に祈り、讃美を献げることができるのでしょう。

<結論>

今年も年末になって、年賀状の準備のために、昨年いただいた年賀状を見直していたんですが、北嶋先生ご夫妻からの年賀状に目が留まりました。お二人で写っている写真が載ってたんですが、奥様の恵さんの髪の毛は真っ白でした。まぁ、以前は髪を染めておられたのかもしれませんが、改めて見て、長年の闘病生活のご苦労を思わされました。皆さんもご存じのように、恵さんは今年の8月22日に召天されましたが、「めぐさんのにゃはは闘病記 最終回」を読む度に、本当に「主の聖徒たちの死は 主の目に尊い」というみことば通りだなぁと思わされています。その闘病記の最後は「ありがとうございました」ということばと笑顔の絵文字でした。「ハレルヤ詩篇」も今朝の開会聖句をもって終わります。
『主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』(詩118:29)。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF89KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌154番、メッセージ後:新聖歌507番

聖書交読

詩編102篇 1~17節

2024年教会行事

今週の集会はお休みです。

#56-2953

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