他者と生きる

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 2章18~25節>
信徒:K

開会聖句

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

<ピリピ人への手紙 2章6~7節前半>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の動画公開はありません。

メッセージ原稿を公開しました。
 

<はじめに>  
今年はじめて水漏れを体験しました。昨日工事が終わり、以前よりきれいになりました。早朝、気になる音がしたので、音の場所を探すと、洗面所の床がぬれて、ポタポタと水滴が落ちてました。今、ポタポタと言いましたが、実際はどう表現したらいいかわからない音で、床の水を見、天井の水滴を見たときにそう聞こえたのです。地震かと思ったときは、ガタガタと聞こえました。
さて前回、神は人間の耳を開かれたという話をしました。それは今のような音を聞く耳ではなく、神の声を聞く耳です。2章は人間の成り立ちが書かれていて、それを知れば、人間の幸いな生き方がわかるだろうと読んでいますが、わかったことの一つは、神が鼻から息を吹き込まれ、耳が開かれ、神の声を聞くことができるようになったことです。だから、幸いな生き方のためには「神の声を聞く」ことがまず大切。そして、人の為に設けられたエデンでは、「あれもこれも食べていい。でも一本の木の実はだめだよ。食べたら死ぬ。」と教えられましたから、「神の教えを守る」ことが2つめです。今日は2章の後半ですが、3章からは話が展開していきますから、人間の成り立ちについての話はここで最後。ここに幸いない生き方の3つめがあります。それはタイトルにあるように「他者と生きる」ことです。これが今日の主題。神が造られた他者とはどういう生きものでしょう?そして他者と生きるとはどういう生き方でしょう?

<本論>
I.他者とは、互いに色々な違いがあり、互いに向き合って助け合う存在です
時々動物霊園の広告を見ます。我が家でもペットの死の後のことを話したことがありました。メダカはポイとゴミ箱に捨てれるけど、犬や猫は?ペットは家族の一員で、話しかける相手ですから、思い入れが強くどう扱ったらいいか難しいのです。話かける相手として、現代ではロボットや、ネット上の架空の人物もいます。子ども時代はぬいぐるみでしょう。これらは、餌やトイレの世話がないので楽です。でも生きものには温かいぬくもりがありますし、心が通じる部分もあります。神もそう考えられたのでしょうか。

18節で「人がひとりでいるのはよくない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

と言われ、他の生き物を次々連れてきて、人に名前をつけさせます。

19節「神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣と・・・人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。」

お見合いみたいですね。名前をつけるために、相手を観察し、触ってみたり、話しかけてみたりしたでしょう。これは、生き物の世話をするという
人間に任された仕事でもあります。そうして、アダムは名づけの仕事を終えましたが、どの生き物にも関心はないようでした。

20節「人はすべての家畜、…しかし、アダムには、ふさわしい助け手が見つからなかった。」

動物とのお見合いは不成功に終わったようです。

そこで、神はもう一度人に「ふさわしい助け手」を造ることにします。再び、土をこね始めた?違いますね。

21節「神である主は、深い眠りを人に下された。…そのところで肉をふさがれた。」

神は人を深く眠らせ、肋骨を一本取りだし、それで一人の女を造られ、人のところ連れてきました。すると、

23節「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」

と、大喜びしました。さきほどとはえらい違いです。人は「これこそ」というふさわしい助け手に遂に出会いました。
23節の脚注に、女は「イシャ」、男は「イシュ」とあります。イシュから取られたのがイシャ。アダーマー(土)からアーダーム(人)ということばが生まれたように、イシュからイシャが生まれました。今まで、人は「人」ということばだけでよかったのですが、違ったものができたことで、「男」と「女」という2種類のことばが必要になりました。これは両者の関係性から生まれたことばで、男あっての女、女あっての男を指し、優劣や上下の関係はありません。人間の創造は女の創造で完成したのです。ある本には、はじめの人がひとりでは良くなかったので、男と女に造り直されたと考えるのがいいと書いてました。なるほど。

しかし、この箇所は、女が男の身体の一部から造られたから、女は男に属する(従う)ものという古くからの考え方の根拠とされます。しかし、1章の人間の創造を思い出してください。27節で、人は「神のかたち」と「男と女」に造られてます。「神のかたち」とは、鼻からいのちの息を吹き込まれ、神と同じ霊的なもの、神の声を聞くものになったこと。「男と女」とは、26節「われわれのかたち(似姿)」とあるように、人は一人ではなく、他者という違った人格と生きるように造られていると言えるのです。神は、人が神の代理として、地上の被造物の繁栄のために働くためには、自分とは違った視点、違った感性を持つ他者が必要だと考えられたのです。
また、「助け手」ということばは、私たちの間では補助的な存在のように考えられますが、聖書の「助け(エゼル)」はそんな軽い助けではありません。例えば、

詩篇33:20「主は我らの助け」、
詩篇121:1「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのか」、
イザヤ41:10「恐れるな。・・・わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの右の手であなたを守る。」

に見られるように、ちょっとした手助けや補助ではなく、力ある神の助けを意味することが多いのです。だから、助け手という存在は劣っているとは言えません。神はもちろん人間の助け手でありますが、地上で人に必要なのは、共に生きる人の助けです。助け合って生きる、これが人と人との関係です。次に「ふさわしい」ということばですが、新共同訳では「彼に合う」、岩波訳では「彼に向き合う」です。ですから、聖書が示すふさわしい助け手とは、互いに違いがあるけど、互いに向き合って助けあう相手であり、従属や、上下の関係ではありません。他者とは色々な違いがありますが、互いに向き合って助け合う存在なのです。

II.他者と生きるとは、他者を理解することから始まります

このような他者との関係の基本的モデルとして、婚姻関係が24~25節で紹介されます。

「それゆえ、男は父と母を離れ、・・・恥ずかしいとは思わなかった。」

これは夫婦の場合ですが、私たちと他者との関係においても、この「一体」と「裸」ということは共通項だと思います。一体(一つ)とは、互いで一つである、互いが必要、一人では不完全ということです。そして「裸であった」は、偽らなくていい、背伸びしなくていい、ええ格好しなくてもありのままの真実な姿をみせても大丈夫という関係だと思います(程度は関係性で決まる)。神が望まれるのは、そのような人間関係で、互いに助け合って生きていくことです。しかし、私たちは人に親切でありたいし、愛したい気持ちを持っています。しかし、助けるということは、難しいことでもあります。

来月1月で阪神淡路大震災30年になります。その直後から色々な人が救助、復興の助けに加わり、ボランティア元年と言われます。あれ以来、ボランティア活動が活発になり、必要と援助がマッチしないとか、個別のニーズに助けが届かないとか、色々な課題が浮かび上がり、その度に少しづつ改善されています。人は性別、年齢、健康、役割に違いがあって、それらのニーズに応えることは難しいのです。

マタイ7:12に「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。」

という勧めがあります。以前の訳は「自分が人にしてもらいたいことは」でした。「自分」ということばがなくなったことで、人を助けることが独りよがりになったり、押しつけの善意になることを、少し控えようという感じがします。
友人は留学する際、先生に「演劇も学んできたらいいよ」とアドバイスを受けました。何のためでしょうか。私は「演劇を学んだら、他者のことがわかるようになる」という意味、人間関係に役立つという意味ではなかったかと思っています。その人になりきるという訓練は、他者のことを少しでも理解するのに役立ちます。私たちもよく似たことをします。聖書降誕劇、朗読とか役を引き受けると、その人物になりきろうとしますね。そして、私はイエスについてのこのことばを思い出しました。

開会聖句ピリピ2:6~7「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」

もちろん、イエスが世に来られたのは十字架にかかるためです。イエスが私たちのところに来てくださったのは父を見せるためです。そして、イエスが人となられたのは人を理解するためと言えます。神だから何でもわかるはず、本当に人間になって、生きる苦しさ、弱さや愚かさを実体験し、私たちをよくわかろうとし、私たちの本当の必要を知ろうとし、知ってくださいました。このイエスの姿は他者と生きていく私たちの模範だと思います。

<おわりに>

人の幸いな生き方は、違いのある他者と生きることです。それは、他者を思いやることから始まります。自分ファーストが広がり、人を思いやることは後になってきましたが、クリスマスに人となってくださったイエスに倣ってみましょう。神のみこころが行われるところに、今度は、神が私たちの心に働きかけ、人と生きることを助け、その幸いを味わわせてくださいます。

メッセージ内容のダウンロード(PDF140KB)

特別讃美

 前奏
H.T姉(ウクレレ)&あおっき~(ギター)

新聖歌

開会祈祷後:新聖歌99番、メッセージ後:新聖歌77番

聖書交読

詩編101篇 1~8節

2024年教会行事

12月25日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時 

#56-2952

コメントを残す

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください