なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<マラキ書 4章1~6節>
牧師:砂山 智
開会聖句
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
<マタイの福音書 1章23節>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:12/21 PM 7:30
メッセージ原稿を公開しました。
・クリスマス、おめでとうございます!今朝の「マラキ」は旧約39巻の最後を締めくくる書です。そして、マラキが預言者として働いた時代も旧約の最後に位置しており、この時代から約400年間、新たな預言者が現れることはありませんでした。しかし、歴史の支配者でもある神は、ただ沈黙しておられたわけではありませんでした。救い主の誕生に向け、ダイナミックに歴史を動かしておられたのです。それは二つあります。一つは聖書には描かれていませんが、あのアレクサンドロス大王によるヘレニズム(ギリシア)化です。そしてもう一つは、新約聖書の舞台となった古代ローマの勃興です。今朝は「神を待ち望むこと」と題して、皆さんと一緒に聖書のみことばに耳を傾けたいと願っています。
<本論>
1.見よ、その日が来る
マラキが活躍したのは、内容的に見て、捕囚後の時代、つまり、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放され、祖国に帰還し、エルサレム神殿を再建した時代と考えられています。そして、恐らくマラキは、祭司エズラと総督ネヘミヤによる宗教改革の魁のような役割を果たしのではないかと。それは、ちょうど「エズラ」の6章と7章の間の空白の期間に当たり、年代で言うと紀元前515年から457年までの約57年間ということになります。捕囚から帰還した民は、なんとか神殿を再建することはできましたが、その喜びは長続きせず、期待していたような祝福どころか、日々の暮らしにも困窮する有様で、大きな幻滅を味わっていました。ですから、その(第二)神殿で行われていた礼拝も次第に形だけのものとなり、神へのささげ物や律法は軽んじられ、正当な理由もなく妻を離縁して異教の女性と結婚する者まで現れたのです。そんな民に向かってマラキは告げます。
『「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。―万軍の主は言われる―』(マラキ4:1)。
少し前の3章2節にも同じようなみことばがあります。
『だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ』(同3:2)。
2.救いと勝利
そして、今朝の4章2節。
『しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。―万軍の主は言われる』(マラキ4:2~3)。
この「義の太陽」の「義(ツェデク)」ということばには、「正しい」という意味だけでなく、「救い」「勝利」という意味が込められています。つまり、この世界に救い、勝利が現れる時には、悪者どもによって抑圧されてきた者たちは、牛舎に閉じ込められた子牛が日の光り輝く牧場に連れて行かれ、喜び跳ね回るように、解放の喜びを味わうだろう。そして、その日、わたしが事を行う日には、悪者どもはあなたがたの足の下で滅ぼされるだろう、ということです。ただ、この「救い」「勝利」とは、私たち人間の信仰の力によって勝ち取った「救い」「勝利」ではありません。それは、主が事を行う日に起こることであり、あくまでも神の御力によってもたらされる勝利として語られています。そのように万軍の主は言われる、と。
3.父の心を子に、子の心をその父に向けさせる
そして、4~6節のみことば。「マラキ」最後のみことばであり、旧約最後のみことばでもあるのですが、この箇所は、旧約から新約への橋渡しをするという意味において、とても重要なことばだと言えます。
『あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」』(マラキ4:4~6)。
この「モーセの律法」とは、旧約聖書の中心であるトーラー(モーセ五書)に記された出来事をも指し示しています。つまり、あなたがたは、かつて主があなたがたになされた驚くべき救いの御業、出エジプトの出来事を思い起こし、主の大いなる恐るべき日を待ち望め、ということです。そして、その日が来る前に遣わされる「預言者エリヤ」ですが、新約聖書は、メシア誕生の知らせとその道備えをしたバプテスマのヨハネこそ、あの偉大な預言者エリヤの再来と見ています。福音書にはそのことを窺わせる箇所がいくつかありますが、例えば「ルカ」1章で、ヨハネの父である祭司ザカリヤに現れた主の使いは、ヨハネについて次のように次のように告げます。
『彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します』(ルカ1:17)。
興味深いのは両方で述べられている父と子の関係です。とても象徴的だなぁ、と私には思えました。それは、「ルカ」15章の「放蕩息子のたとえ」を思い起こさせるからです。とても美しい、父と子の赦しと和解の物語なんですが、クリスマスの知らせは、神と人との間に、そして人と人との間に、赦しと和解を告げる知らせなんですね。
<結論>
そしてもう一つ。クリスマスの出来事は、私たちに待ち望むことの大切さを教えてくれているように思えます。ただ、私たちにとって、希望を失わずに待ち続けるということは、なんと難しいことでしょうか。来年の8月で私の母は召されて10年になりますが、晩年、待つことができない苦しみを味わいました。母は心の病気でしたので仕方がなかったのですが、私も、今年、別の意味で待ち望むということの難しさを痛感させられました。
先週、「ノーベル平和賞」の受賞式があり、日本の被団協の皆さんが受賞されましたが、ヒロシマ・ナガサキの原爆から80年になります。核のない世界を目指して頑張って来られて、それが今なおと言うか、益々、遠のいているような現実の中にあっても希望を失わず、運動を続けておられるお姿を拝見して、本当に頭の下がる思いがしたのですが、それは、やっぱりお一人だけでは頑張って来れなかったと思うんですね。インタヴューでも言っておられましたが、同じように辛い経験をし、励まし合ってきた仲間たちの存在。そして、被爆者じゃなくても、それが自分にも関係のあることだと受け止めて、ともに頑張ってこられた仲間たちがいたからこそ、続けてこれたのだと思います。そして、これからも。
私たちも、この世界の現実を見た時、力のある者、神をも恐れない者たちが、弱い人たちを踏みつけ、わが物顔で振舞う姿を見た時、「主よ、いつまで待てばよいのですか?いつ、この地の上にあなたの平和は来るのですか?」と叫び出したくなります。しかし、希望を失わずに待ち続けたいと思います。それは、同じように主を待ち望む仲間たちがいるから。そして、何よりも、インマヌエルの主、イエス様がおられるから。
特別讃美
(会衆讃美後)
井上 久夫 兄、オルガン:砂山 智恵 姉、ピアニカ:あおっき~
「White Christmas」
「アべマリア」
「You Raise Me Up」
「ノエルをばはじめに」聖歌 127 番
「神の御子は」新聖歌 75 番
「救い主イエスと」新聖歌 340 番
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌81番、メッセージ後:新聖歌474番
第二部
蜀火礼拝
2024年教会行事
12月18日(水) オリーブ・いきいき百歳体操 (10時~11時)
#56-2951