なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<テモテへの手紙 第二 2章8~13節>
牧師:砂山 智
開会聖句
主は私を、どんな悪しきわざからも救い出し、無事、天にある御国に入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
<テモテへの手紙 第二 4章18節>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:11/16 PM 10:21
メッセージ原稿を公開しました。
・先週の「Ⅰテモテ」もそうでしたが、「Ⅱテモテ」は、若いテモテに対するパウロの励ましのことばがいっぱいつまった手紙です。パウロは、「使徒」の最後にあるように、ローマで投獄されますが、一旦、釈放され、「ローマ」15章で語っていたイスパニア(現在のスペイン)を訪れたというのが多くの聖書学者の意見です(第四次伝道旅行)。その後の道程も推測の域を出ないのですが、パウロはエペソを再訪し、そこにテモテを残して、マケドニアのピリピからニコポリスを経てローマに戻ったのではないかと考えられています。そして、紀元66~67年頃、皇帝ネロによって再び投獄されるのですが、今朝の「Ⅱテモテ」は、その牢獄の中で書かれた手紙と考えられています。伝承によると、パウロは、その後、殉教しましたので、「Ⅱテモテ」は彼の生涯における最後の手紙ということになります。
<本論>
1.私が伝える福音
最初の8節に『私が伝える福音』とありましたが、例えば「ローマ」を見ると、パウロが伝えた福音の核心は復活されたキリストであったということが分かります。
『―この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです』(ロマ1:2~4)。
今朝の8節にも、
『この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です』
とありましたが、この「よみがえった」ということばは、単に過去のことだけを意味してはいません。よみがえって今も生きておられる、という意味が含まれています。それは、あのダマスコ途上での回心以降も、何度もパウロに現れ、勇気を与え、危機から脱出する道を備えてくださった復活のキリストを思い起こしてのことばだったでしょう。パウロはテモテに、「死んでよみがえったイエス・キリストのことを、心に留めなさい」と言っているのではなく、「よみがえって、今も私たちとともに生きておられるイエス・キリストのことを心に留めなさい」と励ましているのです。
2.永遠の栄光
まさに「ボロは着てても心の錦」ですね。「使徒」にもパウロのそのようなことばが記されていますが、彼の伝道者としての意地と言うか、福音宣教への燃えるような思いというものを感じさせられることばです。
それでは、パウロのこのような情熱はどこから来ているのでしょうか?確かにパウロは、この世における、金や、名誉や、命さえも、一切、関心はありませんでした。死を覚悟していた彼は、やがて自分が天において受け取ることになる栄光をはっきりと見ていたのです。
10節後半の『キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです』
というのはそういうことですね。それは、少し後の4章8節に出て来る『義の栄冠』と同じものだと思われますが、その栄光、義の栄冠が、具体的にどのようなものなのか?今の私たちには分かりません。ただ言えることは、
『私だけではなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです』(同4:8b)
ということです。この栄光、義の栄冠を、「報い」と言い換えることもできるでしょう。そして、「報い」というと、どうしても「黙示録」20章に出て来る「千年王国(論)」に行き着いてしまうのですが、前千年王国説、後千年王国説、無千年王国説という三つの解釈があって、その中にも様々な解釈があり、そのようなことにとても関心のある方もおられます。ただ、最終的には、神様にお任せするということでよいのではないか、と私は思っています。
3.勝利の賛美
今朝のテキストに戻りましょう。11~13節は、私たちが使っている新改訳聖書では括弧でくくられています。これは口語訳や新共同訳でも同じです。
パウロは、
11節の最初で『次のことばは真実です』
と言ってから、その括弧でくくられたことばを記しています。このような言い方は、例えば、先週お話しした「Ⅰテモテ」1章15節でも見られました。そして、その括弧でくくられている中に書かれていることばは、原文ではきわめて整えられた形式で、韻を踏んでいることから、初代教会で歌われていた賛美歌からの引用であると考えられています。また、新改訳では省略されていますが、原典のギリシア語では最初の部分に「ガル(なぜなら)」という接続詞があるんです。そのことから、パウロはもう少し長い賛美歌の一部を引用したのだということが分かります。当時のクリスチャンたちは皇帝ネロによる激しい迫害の中にありました。多くのクリスチャンが死と隣り合わせのような毎日を過ごしていたと思われます。そのような厳しい迫害の中で、彼らは今の私たちのような聖書を持っていなかったのです。そんな彼らの信仰を支え、大きな慰めとなったのが、ここに記されているような賛美歌だったのではないでしょうか。
『私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる』(Ⅰテモ2:11b)。
ある方は、当時の状況から、これは彼らが自分の殉教の死を予期して歌ったものだ、と考えます。ただ、この箇所の『死んだ』という動詞は、過去のある一時点で起きたことを表す形ですので、これはやはりバプテスマのことを歌っていると思われます。バプテスマは過去の自分に死んだということを公に告白するためのものです。そして、キリストとともに死んだ者は、よみがえって、今も生きておられるキリストとともに永遠に生きる者へと変えられているのです。
私は、初代教会のクリスチャンたちが、このような賛美歌を暗記して、ともに歌い、「アーメン。主よ、その通りです」と励まし合いながら自分たちの信仰を守り通してきたということを考えたとき、本当に改めて「みことば」の持っている不思議な力というものを感じないではいられませんでした。
神学の世界では、どうしても神学的な立場の違いとか、聖書のみことばについての解釈の違いというようなものが気になるのですが、それは、神学も一つの学問である以上、避けて通れないことですし、とても大切なことだとも思います。しかし、それと同時に、私たちは、あの初代教会のクリスチャンたちがそうであったように、お互いに一致して「アーメン」と言えるところを大切にして、ともに主を賛美し、もっともっとお互いを受け入れていく必要があるのではないかと思います。分断と対立ではなくて、キリストにある和解と一致を目指して。
<結論>
『私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。』』(Ⅱテモ2:13)。
後半の『ご自分を否むことができないからである』を、私の持っているギリシア語の辞書では、「自分自身に不真実になることはできないからである」と訳していました。
私たちは、神に対してはもちろんですが、他の人に対して、また、時には自分自身に対しても不真実な者です。けれども、キリストは、誰に対しても常に真実であるだけでなく、ご自分にも真実な方、昨日も今日も変わることのない、とこしえに真実な方です。
開会聖句とさせていただいたのは、この手紙の締めくくりのことばです。その後の終わりの挨拶と祝祷を読むと、パウロは最後の最後まで、テモテと再会することをあきらめていなかったということが分かります。パウロの残したことばに、
『私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です』(ピリ1:21)
ということばがありますが、彼の生涯は、まさにその通りの生涯だったと言えるでしょう。それは、主の真実に生き、そして死んだ生涯だったのです。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌201番、メッセージ後:新聖歌444番
聖書交読
詩編96篇 1~13節
2024年教会行事
今週の集会はお休みです。
#56-2946