休むこと働くこと

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<創世記 1章26~31節>
信徒:K

開会聖句

あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」

<マタイの福音書 25章35~36節>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の動画公開はありません。

メッセージ原稿を公開しました。
 

<はじめに>  
・朝の連ドラもあと少しです。主人公が当時の女性の社会的地位の低さや不自由さに「はて?」と違和感を持ち、法律という武器を得ることによって、新憲法に記された人間の平等を守るべく、社会の偏見と闘った姿は多くの共感を呼びました。「はて?」と疑問を持つことは聖書を読むときにも大事です。イエスさまの種蒔きのたとえで、良い地に落ちたみことばの種は、三十、六十、百倍の実を結ぶと言われました。良い地とはよく耕された土地のことで、みことばを受け入れる素直な心です。素直な心というのは、何も考えない心ではなく、なぜ?と考えることで、柔らくなった心です。ですから、疑問を持つことは真摯にみことばに向き合うことだと思います。今日は創世記2章の冒頭ですが、ここにちょっとした「はて?」がありました。神さまの創造のわざって、確か6日で完成してましたよね?今日はそこに引っかかってみます。主題は「7日目の日」です。

<本論>
I.7日目の神の安息は人間の休息のモデル

1章は「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。・・・第六日。」

で終わり、2章は「こうして」と続きますから、「神さまは六日間で創造のわざを完成されたんだ!」となります。しかし、次の2節で「はて?」と首をかしげます。

「神は第七日になさっていたわざを完成し、第七日になさっていたすべてのわざをやめられた。」

えっ、神さま、どっちですか。創造のわざは6日で完成?それとも7日?そもそも、7日目になさっていたわざをやめられたって、一体あなたは7日目に何をなさってたのですか。なんかややこしい文章ですね。ある先生がこう質問されました。「神さまは7日目にも何かを造られたと考えられます。さて、何を造られたでしょうか?」 答えは「休み」でした。

なるほど神さまも6日間働きづめで、さすがに疲れて7日目に休まれたのかと思いました。でも、この休みはそういう疲れたからという成り行きでできたものではないし、創造のわざは6日で終わったけど、完全数の7に合わせて、休みでもつくりましょうと、付け足されたものでもありません。この最後の日は、目にみえる形としては何も造られていませんが、私たちにとても重要な日です。神が祝福された日だからです。

3節「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。…。」

祝福されたものは今までで2つありました。最初に生き物(1:22)、次に人間(1:28)、そしてこの7日目です。創造は6日間の神のわざによって完成し、私たちの住環境が整えられたのだから、どの日も不可欠な日です。さらに、この日を聖なるもの(神のために取り分けた)とされたと書かれています。なぜ、この日がこんなに特別扱いなのでしょうか。

この休みの日は旧約では安息日、私たちは日曜日と考えます。安息日が最初にでてくるのは十戒です。出エジプト20:8~11。

8節「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」
9節「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。」
10節「七日目はあなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。…」

11節ではその理由、神は6日間で仕事をし、7日目には休み、この日を祝福し、聖なるものとしたと説明があります。私たちは神のために聖別された日と聞いて、礼拝を思い浮かべるのですが、今回、私は休むことがそれに先立つ神の願いではなかったのかと思いました。人間は、神に代わってこの地上で働くために造られました。1章で神の代理人として、この地上の生き物を支配することを命じられ、

2:15「神である主は…そこを耕させ守らせた。」

と仕事が言い渡されます。人間も働くものだから、神に倣って休むように、人間の為の1週間のモデルが整えられたのではないでしょうか。昔「帰ってきた酔っ払い」という歌がヒットしました。「天国いいとこ一度はおいで。酒はうまいし…」と天国がいいところなのは、仕事しないで好きなことだけしてたらいいからでした。多くの人が共感したのは、仕事が辛いからでしょう。しかし、本来、人間は神に代わって地上で働くために造られました。神がご自分の働きを通して味わわれたように、人間も働くことでやりがい、喜び、満足を味わうように願われたからだと思います。仕事が苦しみとなったのは、3章の人間が罪を犯したあとのことです。

神は疲れることのない方。

詩篇121「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。・・・あなたを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。」

イエスは

ヨハネ5:17「わたしの父は今に至るまで働いている。」

と言われました。神には制限がありません。しかし、地上で肉体を持つ私たちは多くの制限があり、食べ物と水がないと死にますし、休まないと死に至ります。だから、休む日が必要です。しかし、休むことは不安なことでもあります。出エジプト20章のマナは民を荒野で養った天からのパンです。禁じられた7日目に集めに出た人たちがいました。その日暮らしなので、明日のことが心配だったのでしょう。7年毎の安息年(レビ25)の規定もありました。社会の仕組みや保障が整っている現代と違い、休むことー神の命令に従うことは信頼がいることでした。神さまは休めというけど、休んでも大丈夫?そんな人間の当然の不安に対して、安息日は休めという命令は、わたしはあなたたちの確かな養い主ですよという力強い宣言でもあるのです。また、勤勉で働きものの日本人は、休むことで仕事がたまり、迷惑をかけるとかで不安や罪悪感を感じることがあるようです。今はずいぶん意識が変わりました。教会でも、先生方がまとまった休暇を取れるようになりました。一昔前の日曜日は忙しかったですね。
私たちは自分の力で頑張って生きているようで、実は全くすべてを神に依存しているものです。1章で「夕があり、朝があった。」ということばが繰り返されてますが、聖書の世界では、一日は夕から始まります。一日は私たちが休む夕に始まり、私たちのための翌日の備えをしてくださる神の働きが先行します。眠っている間に備えてくださるのです。7日目は神に代わってこの世界で働く人間のために設けてくださった恵みの日です。休むことは、神に信頼することですから、あがめること、礼拝の日でもあるのです。

「安息日は人のために設けられたのです。」(マルコ2:27)

II.神に代わって働くこと

最後に「働くこと」について考えてみたいと思います。働くことを狭い意味で考えると賃金を得ることー職業ですね。この意味では私は3年除いて無職でしたが、何も仕事をしてなかったとは全く思っていません。そもそもエデンで人間は神に仕事を託されましたが、すでに食料としてたくさんの木の実がありましたから、糧を得るためではありませんでした。糧を得るための苦労は、犯した罪の裁きの後なのです。私は糧のための働きとは別に、人間には誰にでも仕事があると思います。三浦綾子さんは「光あるうちに」という本の中で「私たちに、もし生きる意欲がなくなっているとすれば、それは適当な仕事がないのではなく、人に仕える、人のために動く気持ちが失われているのではないだろうか。」と述べています。糧を得るための仕事だけでなく、「人に仕える、人のために動く気持ち」から始まる行いが、神の代理人としての意味での仕事だと思います。

今日の開会聖句は

マタイ25:35~36「あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、…。」

これは天の御国のたとえで、イエスの御前にすべての人が集められて、あなたは右(御国に入れる)、あなたは左とより分ける裁きの理由が申し渡されている場面です。これはたとえですから、私たちにそのまま当てはめことではありませんが、何を仰りたいかです。皆、なぜ自分が右か、左かわからない。イエスにそんなことをした記憶がないのです。イエスはこの後、こう言われます。

40節「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」

これは、人が弱っているとき、困っているとき、苦しんでいるとき、あなたはその人たちのことを心配しましたか?心を動かし、何かしましたか?ということだと思います。神が任された仕事(地上のケア)を、わたしに代わってしてくれましたかということです。
この時代の宗教のリーダーであった人たちは、神の思いを無視し、逆に、弱い立場の人を気遣うことより片隅に追いやっていました。心を痛めたり、心を動かそうとしなかった。むろん弱者への施しはしていましたが、それが律法を守ることだったからです。そういう悪い手本がまかり通る時代に、イエスは人間の本来の働きというのは、神に代わって、隣人のために心を動かし、その人のためにできることを、力に応じてすることだと言いたかったのではと思います。

<おわりに>

このたとえで誤解していけないのは、行いが救いの基準ではないことです。それは間違いなく信仰によってです。しかし、神の子とされた私たち、神に地上で仕事を委託された私たちは、たとえ子どもでも、高齢者でも、力のある人でもない人でも、誰にでもやるべき仕事があります。自分を休ませることも大切ですし、周りに苦しんでいる人、弱っている人はいないだろうかと、心を動かすことも大切です。その両方が神が望まれる私たちの日々の過ごし方ではないでしょうか。

メッセージ内容のダウンロード(PDF87KB)

新聖歌

開会祈祷後:8番、メッセージ後:99番

聖書交読

詩編87篇 1~7節

2024年教会行事

9月25日(水)オリーブ・いきいき百歳体操 10時~11時 

#56-2939

Comments are closed