死からいのちへ

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<列王記 第二 4章1~7節>
牧師:砂山 智

開会聖句

人々が、一人の人を葬ろうとしていたちょうどそのとき、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去って行った。その人がエリシャの骨に触れるやいなや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった。

<列王記 第二 13章21節>

メッセージ内容

Youtube動画


公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:9/14 PM 10:49
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・先週に続いて「Ⅱ列王記」からです。先週は2章から、「エリヤとエリシャ」と題してお話ししました。旧約には本当にたくさんの預言者が登場しますが、このエリヤとエリシャほど多くの奇跡を行った預言者は、あのモーセを除いていないでしょう。特にエリシャは、今朝の開会聖句にありましたように、骨になっても奇跡を起こしたんですね!もちろん、それはエリシャの力ではなくて、神が行われたということなんですが。預言者(ナービー)というのは、神のことばを預かり、その預かったことばを人々に伝える者のことです。エリヤとエリシャは、ことばだけでなく、奇跡を通して神のみことばを伝えた預言者だったと言えるでしょう。高校生の頃に観た「スターウォーズ」という映画に、オビワン・ケノービとルーク・スカイウォーカーというジェダイの騎士が出てきて、元ジェダイで、今はダークサイドの親玉とかしたダース・ベイダーと戦うんですが、エリヤとエリシャも、師匠と弟子という固い絆で結ばれ、アハブ王の妻イゼベルによってもたらされたバアル信仰、偶像崇拝という悪と戦ったのです。そして、先週も二人が同じような奇跡を行ったことが出てきましたが、今朝の話も、かつてエリヤがツァレファテのやもめの女性に行った奇跡とよく似ています。ただ、ディテール(細部)は微妙に異なっていますが。

<本論>
1.ただ、油の壺一つしか

その一つは、エリシャが助けたのは、見ず知らずの女性ではなくて、預言者の仲間の妻であったということです。師匠のエリヤには、どうしても「孤高の人」というイメージがつきまとうのですが、エリシャはそうではなく、同じ預言者仲間たちと協力し、そのリーダーとして彼らのお世話もしていたみたいです。その預言者仲間とは、かつて主が、ホレブの山でエリヤに「わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである」(Ⅰ列19:18)と言われた預言者たちでした。彼らは言わば反体制派でしたので、この世的には報われない生活を強いられていたでしょう。今朝の女性がエリシャに「債権者が来て、二人の子どもを自分の奴隷にしようとしている」と訴えたのも、さもありなんと思うんですね。エリシャは親身になって、彼女に「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか」と尋ねます。このあたりも、エリヤがツァレファテのやもめにかけたことばとはずいぶんと違うなぁと思うんですが、彼女は答えます。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」この壺とはオリーブ油を入れておくためのもので、そんなに大きなものではなかったと思われます。一説によると、このオリーブ油は暑さをしのぐために体に塗るためのものでしたが、当時、喪に服している間は油を塗らないという風習があったので、この壺だけが残されていたのだろうということです。しかし、そんな小さな一つの壺が神のご栄光を現すために用いられることになります。

2.油は止まった

彼女はエリシャから言われたその通りに、子どもたちと家に入り、背後の戸を閉め、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れます。背後の戸を閉めなさい、ということばについては様々に解釈されていますが、エリシャ自身は、直接、手伝うことはなかったわけです。もしかしたら、彼女と二人の子どもだけで、本当にその通り行うかどうかを試したのかもしれません。そうしたら不思議なことに、どんどんどんどん油が注がれ、器がどれもいっぱいになったんです。それで、彼女は子どもの一人に「もっと器を持って来なさい」と言うのですが、その子どもが「もう器はありません」と答えたら、油は止まった。あれほど、どんどん注がれていた油がピタッと止まってしまったんです。「哀歌」に、

『実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ』(哀3:22)

というみことばがありますが、今朝の奇跡を読んで私が思ったことは、主のあわれみ、恵みは尽きないけれども、その恵みを注ぎ入れるための器が無くなれば、もうそれ以上は注ぎ入れることはできないということです。もちろん、今朝の話では、二人の子どもがどんなに頑張っても、これ以上、器を集めることは難しかったと思うんですが、私たちはどうでしょうか?「主のあわれみは尽きないとあるけれども、まぁ、こんなもんかなぁ。あんまり期待しすぎても…」と、最初から、器を集めることを、器を出すことをあきらめてしまってはいないでしょうか?昔、若い頃に、「あなたの神は小さ過ぎる」という本を読んで、とても教えられたんですが、年を取って、信仰もマンネリになって、いつの間にやら、神のなさることにあまり期待しなくなってしまった自分がいるように思うんです。しかし、主は、私たちが用意した空の器すべてに、その器がいっぱいになるまで恵みを注いでくださる方なんですね。

3.エリシャとイエス様

そして、今朝、もう一つお話ししておきたいことは、旧約と新約との関係でよく言われることですが、旧約における出来事や人物が、新約の出来事や人物の前兆、或いは雛型とされることがあるということです。例えば、出エジプトの出来事などはその典型なんですが、所謂、「予型論」と呼ばれる聖書の解釈方法です。その「予型論」で、
エリシャは旧約におけるイエス様の型だとされています。それに対して、師匠のエリヤはバプテスマのヨハネの型なんですが、「福音書」を読むと、既にイエス様の時代に、バプテスマのヨハネはエリヤの再来だと考えられていたということが分かります。ヨハネもエリヤも、毛の衣を着て腰には革の帯を締め、人里離れた荒野で禁欲的な生活をしたということで、確かによく似ていますよね。エリシャはそんなエリヤの弟子であり、同じように多くの奇跡を行ったんですが、ある意味、エリヤとは対照的な生き方をした人でした。最初にお話ししましたように、彼はエリヤのような一匹狼ではなく、仲間を大切にする人であり、今朝の女性のように困っている人がいれば相談に乗り、援助する人でした。エリヤのように天から火を呼び降すことはありませんでしたが、同じ4章後半には、大麦のパン二十個と僅かな穀物で百人の人たちを養ったことが記されています。また、彼は、イスラエル人だけに神の恵みを取り次いだのではなく、イスラエルの敵とも言えるアラムの将軍ナアマンの重い皮膚病ツァラアトまで癒し、すべての造られた者の主である神のご栄光を現したのです。

<結論>

今朝の開会聖句は、そんなエリシャの最後の奇跡です。この奇跡はイエス様の死と復活を想い起させてくれます。「ヨハネ」に、ニコデモというユダヤの議員で教師でもあった人が、ある夜、こっそりとイエス様を訪ねて来る話があります。イエス様はそのニコデモに「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハ3:3)と言われました。その新しく生まれるということ、新しいいのちとは、イエス様ご自身の死と復活によってもたらされました。そのことを覚えるための礼典がバプテスマ式です。今日は、この後、O兄のバプテスマ式が行われますが、それは、O兄がキリストとともに死に、キリストとともによみがえって、新しいいのちに生きる者とされたことのしるしです。ですから、今日はO兄の第二の誕生日と言えます。これから始まる新しい人生が復活のキリストとともに歩む祝福に満ちたものでありますように。祈りましょう。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF100KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌433番、メッセージ後:新聖歌45番

聖書交読

詩編84篇 1~12節

2024年教会行事

9月11日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時~11時

#56-2937

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