エリヤとエリシャ

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<列王記 第二 2章1~14節>
牧師:砂山 智

開会聖句

エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。

<列王記 第二 2章12節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・今朝のテキストの「Ⅱ列王記」に先立つ「Ⅰ列王記」は、あのダビデ王の死と後を継いだソロモン王の治世に始まり、アハブ王の死で終わっています。年代で言うと紀元前960年から850年頃までです。ソロモン王で真っ先に浮かんでくることといえば、やはりあの神殿を建設したことですが、一方のアハブ王で真っ先に浮かんでくることといえば、あのカルメル山におけるエリヤとの対決でしょう。エリヤが天から火を呼び降してアハブ王が庇護していたバアルの預言者たちを打ち負かしたという。この、一見、似ても似つかない二人の王なのですが、実は不思議な共通点があるんです。その一つは、ソロモン王の時代が「ソロモンの栄華」としてよく知られているように、アハブ王の時代もまた、(北)イスラエルが政治的・経済的に大いに栄えた時代であったということ。そして、もう一つは、それぞれ外国の女性を妻や側室にしたことで異教の神々を引き入れることとなり、偶像崇拝の罪を犯したということです。その結果、ソロモン王の場合は、死後、王国が北と南に分裂するわけですが、アハブ王の場合には、エリヤの驚くべき奇跡による勝利があったにもかかわらず、偶像崇拝は無くならず、滅亡への道を突き進んで行くことになるのです。
「Ⅱ列王記」には、その北イスラエルの滅亡と、さらには南ユダがバビロンの捕囚となって滅ぼされるまでの、およそ三百年間の歴史が記録されています。

<本論>
1.あなたに代わる預言者とせよ

今朝の場面は、「黒人霊歌」の「スウィングロウ・スウィートチャリオット」でよく知られています。エリヤが竜巻に乗って天に上って行った後、そのエリヤの後継者となったのがエリシャなんですが、エリシャというのは「神は(私の)救いである」という意味だそうです。彼の名前が初めて出てくるのは「Ⅰ列王記」の19章です。エリヤがカルメル山で勝利した後、アハブ王の妻イゼベルから脅され、急に怖気づいて、逃げて逃げて、四十日四十夜歩いて神の山ホレブに辿り着き、そこで聞こえて来た主からのかすかな細い声の中にエリシャの名前が出てきます。

『主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」』(Ⅰ列19:15~18)。

このみことばは、「あなたの預言者たちはみな殺され、ただ私だけが残りました。その私も殺されそうです」と訴えるエリヤにとって何よりの励ましになったと思うのですが、ただ、改めてその内容を見てみると、意外なことに気づきます。それは、主はエリヤに向かって、わたしはアハブの王朝を断絶するので、ハザエルに油を注いでアラムの王とし、ニムシの子エフーに油を注いでイスラエルの王とせよ、と命じられたのですが、実際にそれらのことを行ったのはエリヤではなくてエリシャだったのです。もしかすると、エリヤはこの時、自分がまた、あのカルメル山での時のように用いられることを願っていたのかもしれませんが、主のみこころはそうじゃなかったんです。「おれがおれがの「我」を捨てて、おかげおかげの「下」で生きよ」ということばがありますが、主はエリヤを励ましつつ、「お前の使命は終わったのだ。後に続く者たちに委ねよ」と言われたのかなぁと思わされました。どんなに素晴らしい預言者や信仰者であっても、人間が自らの熱情や信仰の力で神のご計画を進めることはできません。人の力ではなくて、万軍の主の熱心がこれを成し遂げるのです(イザ9:7b)。

2.二倍の分を私のものに

そして、今朝の場面ですが、本当にエリヤという人は最初から最後までド派手と言うか、エッジの効いた預言者だなぁと改めて思ってしまうんですが、前半の6節までを見ると、エリヤがエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私を~に遣わされたから」と三度も命じています。しかし、その都度、エリシャは「私は決してあなたから離れません」と拒むと言うか、必死にエリヤに縋りついています。エリヤがエリシャを試しているようにも見えるのですが、エリシャの本心は、9節の彼のことばで明らかとなります。

「あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」(Ⅱ列2:9b)。

そのエリシャの願いに対して、エリヤは「あなたは難しい注文をする」と言っています。ただこれは、単に二倍の分け前・相続分をくださいということではなくて、私に長子の権利を相続させてくださいという意味なんです。「申命記」21章17節に書かれてある通りなんですが、そう考えると、この時のエリシャの姿は、あの「創世記」に出てくるヤコブの姿と重なって見えます。父イサクから長子の権利を譲り受けるために兄であるエサウや父イサクまでも騙したという。私たちは、この世的なもの、富や名誉や病からの癒しなどには貪欲ですが、神からの霊を受けること、霊的な祝福に対してはどうでしょうか?本当はそのようなものにこそ貪欲でなければならないのではないでしょうか。イエス様が言われた、

「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタ7:7a)

というのは、そういう意味なのでしょう。主はエリシャの願いをかなえてくださいます。今朝の8節でエリヤが、14節ではエリシャが、外套を取ってヨルダン川の水を打ち、水を両側に分けたというのは、エリヤがあのモーセの霊を受け継ぐ正当な後継者であり、さらにエリシャはそのエリヤの正当な後継者だということを証しするしるしだったのです。

<結論>

ただ、そんなエリシャも、預言者仲間や人々から、すぐにエリヤの後継者として認めてもらえたかというと、決してそうではなかったみたいです。今朝の箇所のすぐ後の15~18節にある短いエピソードや、23~25節に書かれている話なんか読むと、そう感じます。特に後半の話は、けったいな話ですよね。エリシャの外見(はげ頭)をからかった子どもたちが(直訳では若者たち)、二頭の雌熊に襲われ、四十二人が殺されるという…。聖書には、時々、理解に苦しむような話が出てきますが、この箇所も様々な方が様々に解説してくださっていますので、ご自身で調べてみられても面白いかもしれません。
今朝の開会聖句は、エリヤが天に上げられた時、エリシャが叫んだことばです。実は、これと全く同じことばが13章14節にも出てきます。エリシャの臨終の際に、イスラエルの王ヨアシュがエリシャに向かって叫んだことばです。「イスラエルの戦車と騎兵たち」というのは、当時の最強の兵器であった戦車や騎兵よりも頼りになる者、という意味ですが、師匠のエリヤがそうであったように、エリシャもまた、イスラエルにとってそのような存在となってゆくのです。来週の礼拝でそのことを見てゆきたいと思っています。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF100KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌496番、メッセージ後:新聖歌257番

聖書交読

詩編80篇 1~7節

2024年教会行事

9月4日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時~11時

#56-2936

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