キリストにある苦しみと恵み

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<使徒の働き 26章19~29節>
牧師:砂山 智

開会聖句

この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。

<テモテへの手紙 第二 2章9節>

メッセージ内容

Youtube動画

 

公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:8/24 PM 10:52
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・今朝の場面は2節から始まるパウロの弁明の後半部分です。この弁明が行われたのは、カイサリアの法廷においてでした。パウロはエルサレムでユダヤ人の陰謀によって捕らえられ、ローマ軍に保護されるような形でローマのユダヤ総督が駐留するカイサリアに連れて来られたのです。それはパウロがローマの市民権を持っていたからですが、にもかかわらず、前の総督フェリクスの怠慢と下心のせいで、2年もの間、裁判は開かれず、牢につながれたままになっていました。しかし、総督がフェストゥスに代わったことで事態は動き出します。今朝の場面に登場するアグリッパ王は新総督への挨拶のためにカイサリアに来ていたのですが、このアグリッパとはアグリッパ二世のことで、12章に登場するヘロデ王(アグリッパ一世)の息子で、あのヘロデ大王の曾孫にあたります。余談ですが、彼は後のユダヤ戦争で、紀元70年にエルサレムがローマ軍によって攻撃され、陥落した時、ローマ側につき、曽祖父のヘロデ大王が大改修したエルサレム神殿を徹底的に破壊した王としても知られています。ヘロデ王朝最後の王となった人物です。

<本論>
1.信仰と行い

19節の『こういうわけで』というのは、その前の12~18節で述べた、自分が回心するに至った回想を受けてということです。そこには、9章の回心の場面には書かれていないこともあって、比較して読むと興味深いのですが、特に17~18節のみことばは、自らを『異邦人への使徒』(ローマ11:13)と称したパウロにとって、生涯、忘れることのできないことばだったのではないでしょうか。皆さんにも、信仰に導かれた時に示されたみことば。或いは、神様から何らかの召しを受けた時に示されたみことばがあると思います。私も、来年の1月で65歳、教団の牧師の定年の年齢になり、晴れて高齢者の仲間入りですが、今朝のパウロと同じように、それらのみことばを大切にして歩んで行きたいなぁと思います。
そして、20節のパウロのことばですが、

『ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました』(使26:20)。

パウロというと「信仰義認」ということばが浮かんできますが、それは、彼が書いたと言われている「ガラテヤ」などのみことばが根拠になっています。

『しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました』(ガラ2:16a)。

そして、16世紀の宗教改革を経て、プロテスタント教会の「信仰義認」と呼ばれる教えが生まれたわけです。宗教改革を指導した一人のルターは、パウロの手紙を高く評価する一方で、「ヤコブ」を厳しく批判しました(「藁の書」)。それは、「ヤコブ」が、一見すると、クリスチャンの行いを強調しているように思えたからなんですが、例えば、

『同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです』(ヤコ2:17)。

確かにそう読めますよね。ただ、ヤコブが言っているのは、信仰と行いとの関係は車の両輪のようなもので、そのどちらが欠けても前に進むことはできない、というようなことだと思うんですね。
イエス様は次のように言われました。

『あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません』(マタ7:16~18)。

このみことばは、信仰と行いのもう一つの関係、大切な順序を教えてくれているように思えます。それは、木が先にあって実は後から結ぶものだということです。当たり前の話なんですが、この順序が逆になることはあり得ないんです。だから、以前にもお話ししましたように、To do(何をなすか)ではなくて、To be(いかにあるか)が大切なんですが、「エペソ」にあるように、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた。そして、神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださったのです(エペ2:10)。

2.ボロは着てても
そして、今朝の場面で一番印象に残ったのは、やはり最後の29節のことばではないでしょうか。パウロはローマの総督フェストゥスからの「おまえは頭がおかしくなっている」ということばに冷静に反論した後、旧約の知識があるアグリッパ王に狙いを定めて信仰への決断を迫ります。しかし、アグリッパ王は、パウロの質問に対して、「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」と言って、まともに答えようとはしなかったのです。「おまえは、この俺様を、その程度のことば
で説得できると思っているのか!」というような感じでしょうか。パウロは答えます。

「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです」(使26:29)。

「ボロは着てても 心の錦」という歌がありましたが、このパウロのことばは、決してハッタリではなく、強がりでもなかったでしょう。私は、このことばを読んで、キリストを信じることは、キリストのために(とともに)苦しみを受けることでもあるという、パウロの覚悟を見た思いがしました。パウロが伝えた福音(よきおとずれ)の中心は、23節にあった、

『すなわち、キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです』(同26:23)。

パウロは、キリストの受けた苦しみに自らの苦しみを重ね合わせることで、血の通っていない口先だけの福音ではなくて、切れば血の出るような生き生きとした福音を宣ベ伝えようとしたのです。

<結論>

パウロはカエサルに上訴していたので、この後、ローマまで送られることになります。今朝の開会聖句は、そのローマの牢獄で弟子のテモテに宛てて書いた手紙の一節です。パウロ最晩年のことばだと言われています。このみことばの少し後の11節から13節までを見ると、かっこで括られ一段下がって書かれていますが、これは恐らく初代教会の讃美歌であろうと考えられているからです。同じ「使徒」16章には、パウロがピリピの牢獄でシラスとともに祈りつつ神を賛美する場面がありますが、パウロは、カイサリアの牢獄でも、そしてローマの牢獄でも、同じように讃美を献げたのではないでしょうか。今朝の最後にその讃美を読ませていただき、説教を閉じたいと思います。

『「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」』(Ⅱテモ2:11b~13)。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF99KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌442番、メッセージ後:新聖歌201番

聖書交読

詩編77篇 1~15節

2024年教会行事

今週はお休みとなります。

#56-2934

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