百人隊長コルネリウス

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<使徒の働き 10章1~23節前半>
牧師:砂山 智

開会聖句

神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。

<テモテへの手紙第一 4章4節)>

メッセージ内容

Youtube動画

 

公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:6/23 PM 11:18
 


 メッセージ原稿を公開しました。  

<序論>
・「使徒」の特徴の一つは「幻」ですが、今朝の百人隊長コルネリウスの話でも、幻を通してみこころが示されます。そのみこころとは、神は、ユダヤ人だけでなく、すべての民族の救いのために、御子イエス・キリストをお遣わしになったということでした。

<本論>
1.敬虔な人

1節の『カイサリア』という町は、異邦人伝道の最初の拠点となった町です。皆さんはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)という人物をご存じかと思いますが、ローマ帝国の初期、「カエサル」という名前は皇帝を指す称号とされていたそうで、あのヘロデ大王がローマ皇帝への敬意を表すため、この町を「カイサリア」と名付けたのだそうです。また、この町は地中海に面した重要な港でもあったことから、ローマ政府が任命したユダヤ総督が駐在しており、今朝の主人公コルネリウスは、この町のイタリア隊という部隊の百人隊長でした。イタリア隊というのは、イタリア人によって編成された部隊で、通常六百人程の兵士がいたそうです。今の軍隊で言うと大隊に当たる規模だと思います。そして、百人隊長というのは、さしずめ中隊長(大尉クラス?)といったところでしょうか。中隊長は部下の兵士全員を自分の肉声が届く範囲内で指揮できる最上位の指揮官で、戦場における実際の戦術指揮を執る立場にあった軍人です。ですから、そういう意味でも、百人隊長というのは非常に重要なポストであったと思われます。ちなみに、新約聖書に出てくる百人隊長というのは、なぜか皆、キリスト教に対して好意的な人物として描かれています(マタイ8:13、ルカ23:47)。そして、今朝のコルネウスも、2節。

『敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた』(使9:2)

とありました。
施しと祈りは、ユダヤ教徒がなすべきわざの中でも、特に大切なわざとされていました。彼はイタリア人でしたが、ユダヤ人の信仰に深く共感していたのでしょう。否、それは共感以上のもの、信仰と呼べるものだったと思います。8章のピリポとエチオピアの宦官の物語でも話しましたが、恐らく、コルネリウスという人物も、ユダヤ人の会堂に出入りし、ユダヤ人と交わる中で、次第にユダヤ教の信仰へと導かれていったのでしょう。ただ、やはりイタリア人でしたので割礼は受けていなかったと思います。私たちにはピンとこないのですが、以前にもお話ししたように、割礼は、ユダヤ人にとって非常に重要な宗教的儀式です。ですから、このしばらく後に(15章)、そのことについてエルサレムで会議が開かれます。教会会議(公会議)というのは、主に教義上の問題を話し合うために開催されるのですが、最初の教会会議のテーマは割礼についてだったのですね。そして、この会議で、弟子たちはユダヤ主義から離れることを宣言することになるのです。

2.ペテロが見た幻

さて、コルネリウスは、幻で、御使いから、ヤッファにいるペテロという人を招きなさいと命じられ、すぐにその命令に従います。彼の信仰がそれほど素晴らしいものであったということなんですが、コルネリウスは、当時、精強を誇ったローマの軍人でした。軍人にとって上官の命令は絶対です。ですから、コルネリウスにとって、神の御使いからの命令というのは、他のどんな上官からの命令よりも尊重すべき命令として受け止められたのではないでしょうか。そして、彼によって遣わされた三人がちょうどペテロのところに着いた頃、ペテロは不思議な幻を見ます。旧約の律法には、ある種の動物は汚れているので食べてはならないという規定がありますが、ペテロは、その幻を見た後、次のような声を聞くのです。それも三回も。

『神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない』(使9:15)。

イエス様も、かつて次のように言われました。

『みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです』(マルコ7:14b,15)。

イエス様は、人の口から入る食べ物や飲み物で、宗教的に汚れたもの、その人を汚すようなものは一切ないと言われたのです。ただ、今朝の不思議な幻を通してペテロに告げられたことは、単に食べ物や飲み物のことだけではありませんでした。それ以上の、もっと大切な意味を含んでいたのです。それは、イエス・キリストが十字架に架けられ、死んで復活されたのは、選民であるユダヤ人のためだけではなかったということです。イエス様が来てくださったのは、すべての人のためであり、神の御前では、最早、選ばれた民族、選ばれていない民族、というような区別はない。すべての人がイエス・キリストの福音を信じるようにと招かれているということです。ですから、この後、百人隊長コルネリウスを始めとする異邦人たちにも聖霊が降り、彼らはイエス・キリストの名によってバプテスマを受けることになるのです。

<結論>

『神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません』(Ⅰテモ4:4)。

これは、パウロが、自分の同労者であり、若い弟子であったテモテに対して送った手紙の一節です。この手紙は、パウロが最晩年に書いたもので、彼はこの少し後、ローマで殉教したと伝えられています。パウロは、今日では、誰もが「大伝道者」として認めるような人物ですが、彼が回心してから歩んだ道というのは、決して順風満帆ではなく、悪戦苦闘の連続でした。この手紙を読むと、パウロが自分のそのような経験を踏まえた上で、若いテモテを励まし、慈しみ、そして教え導こうとしている姿が強く伝わって来ます。せっかくですから、少し前の1節から読ませていただきます。

『しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りとによって、聖なるものとされるからです』(同4:1~5)。

今朝のメッセージの最後になりますが、神が造られたものの中で最高傑作とは何でしょうか?それは、私たち人間ではないでしょうか。私たち人間の尊厳は、まさに神が造ってくださったということにあると思います。私もあなたも、そして、あの人もこの人も、神のことばと祈りとによって、聖なるものとされるのです。

メッセージ原稿のダウンロード(PDF96KB)

会衆讃美

開会祈祷後:新聖歌112番、メッセージ後:新聖歌433番

聖書交読

詩編64篇 1~10節

2024年教会行事

今週の集会はお休みです。

#56-2925

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