なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<マルコの福音書 16章1~8節>
牧師:砂山 智
開会聖句
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。
<マタイの福音書 6章34節>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:4/6 PM 11:30
メッセージ原稿を公開しました。
・イースター、おめでとうございます!今朝は、「マルコ」の最終章16章の復活の場面から、「2024イースターによせて」と題してお話しさせていただきます。
<本論>
1.三人の女性たち
四つの福音書の中でも、「マルコ」の文体は簡潔と言われていますが、復活の記事も実にシンプルです。聖書が書かれた時代には、もちろん印刷機なんてありませんので、「写本」と言って、人間がすべて手書きで書き写していたわけですが、その内の有力な写本に載っているは、今朝の8節前半までなんです。
※これ以降は写本上の証拠から二世紀になって追加された文章であることが明らか。
イエス様が十字架につけられ亡くなられたのは金曜日の午後三時頃で、その後の日没から土曜日の日没まで、ユダヤでは安息日のため、誰もイエス様が埋葬された墓に行くことはできませんでした。今朝の場面に登場する三人の女性たちは、イエス様がガリラヤにおられる頃から付き従ってきた女性たちの一部と思われます。彼女たちはイエス様や弟子たちの食事など、身の回りのお世話をしてきた人たちだったのでしょう。そして、この三人の女性の名前は、一つ前の15章40節、47節にも出てきます。
『女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセフの母マリアと、サロメがいた』(マル15:40)。
『マグダラのマリアとヨセフの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた』(同15:47)。
イエス様の十字架と埋葬の場面ですが、彼女たちは、そんな危険な場面にも立ち会っていたのです。そのことは、彼女たちが一切の打算抜きに、どれほど純粋にイエス様のことを愛していたのかを示していると思います。不思議なことに、これら、十字架や埋葬の場面に弟子たちの姿は見られません。そして、それは、今朝の復活の朝の場面もそうです。弟子たちは家の奥に隠れていたのです。しかし、この三人の女性たちは、安息日が明けるのを今や遅しと待ち続け、早朝、日が上った頃、イエス様のご遺体に油を塗りに行こうと墓にまで出かけて来ました。3節にあったように、「だれが墓の入り口から石を動かしてくれるでしょうか」と話し合いながら。彼女たちには何の目算もなく、全く無駄働きで終わってしまう可能性もあったんです。しかし、彼女たちにとっては、そんなこと、どうでもよかったのでしょう。ただ、あの懐かしいイエス様の側に行きたい。そして、あのボロボロになったお体に油を塗って差し上げたい。信仰というのは理屈ではなく、イエス様を想うそんな一途な思いのことを言うのではないか、と改めて思わされました。そして、そんな思いが、彼女たちを復活という大いなる喜びの場面へと導いたのです。
2.あの方はよみがえられました
彼女たちにイエス様の復活を告げたのは真っ白な衣をまとった青年でしたが、彼は右側に座っていたとありました。聖書では右というのは神の側を意味します。この青年は天使だと思われます。新約聖書で天使が告げる場面と言えば、クリスマスの場面をすぐに思い浮かべるかもしれませんが、イエス様の復活も、天使から告げられたのです。人間の預言者などからではなかったんです。それはつまり、復活は、私たち人間が自分の頭で考えて理解し、納得できるようなものではないということではないでしょうか。ですから、私たちが復活を信じることと、教理としての復活を知っていることとは全く違うのであって、復活は人間の考えを超えたものだと言えるでしょう。それは、クリスマスの出来事と同じく、神様からの一方的な宣言であって、私たちが何かを証明したり、説明したりして理解できるようなものではありません。私たちは、ただそれを、聖霊の助けをいただいて、信じ、承認し、受け入れなければならないのです。
6節、7節を、もう一度ご覧ください。
『青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。」』(マル16:6~7)。
この天使が語ったことばについて、「新約聖書一日一章」で、榎本保朗師は次のように書いておられました。
「女たちはイエスに香油を塗るためにいろいろと努力したが、イエスはよみがえっておられた。このことは、人間が神を喜ばせようとする世界、人から神への世界が無意味になり、神から人間への世界が生じたことを示している。墓が開かれたのも、人間が墓に入っていくためではなく、墓からイエスがよみがえるためであった。そのことによって、新しい命の世界が始まったのである。それはちょうど、電灯が夜明けと共に意味を持たなくなったのと同じである。神がすべてをなされ、神の世界が人間の世界に入ってきたのである。」ii 榎本保朗「新約聖書一日一章」P99 主婦の友社
死は滅ぼされ、新しい命の世界が始まった。神がすべてをなされ、神の世界が私たち人間の世界に入ってきた。そのしるしが復活です。
ただ、不思議なことに、「マルコ」は、次の8節で、彼女たちは、そこから逃げ去り、震え上がり、そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからであると、唐突とも言える終わり方をしています。最初に申し上げましたように、元々の「マルコ」はここまでと考えられていて、復活されたイエス様がマグダラのマリアや弟子たちに現れたという場面は描かれていないんです。その理由は私には分かりませんが、私は、何か彼女たちの示した反応こそが、私たち人間の自然な反応のように感じました。いくら御使いから、あの方はよみがえられました、と告げられても、本当に復活されたキリストと個人的にお会いしなければ、それを信じるということは難しいのです。
「Ⅰコリント」15章13.14節を読むと次のように書かれています。
『もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります』(Ⅰコリ15:13~14)。
これは、当時のコリントの教会に、イエス様の復活は信じても、そのことを信じて死んだ人間までが復活するなんてことはあり得ない、と言っていた人たちがいたことを示しています。イエス様とほぼ同時代に生きた人たちでさえ、そうだったんです。「ヨハネ」20章に出て来るトマスは、復活のキリストが弟子たちに現れた時、たまたまそこにいなかったのですが、彼は、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言いました。もちろん、イエス様はその後、トマスにも現れてくださり、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と励ましてくださったのですが、大切なことは、あなたが、キリストが復活されたということを誰かから聞いたということではなくて、あなた自身が復活のキリストとお会いしたということなんです。
<結論>
そして最後に、今朝は「イースター」ですが、神はその新しい命の世界が始まる前に苦難を与えられました。先週の「受難週」から今朝の「イースター」にかけては、文字通り、闇から光へ。強いコントラストに彩られた一週間でした。
私たちは、もちろん、苦難になんか遭いたくないです。それは、嘘偽りのない人間の心であって、あのイエス様も、十字架にかけられる前、ゲッセマネの園で本当に苦しい祈りをささげられました。ルカはその時の様子を
「汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44b)
と記録しています。この苦しい祈りの姿は、私たちと同じ人となられた人間イエスの苦悩を表しています。実は、私も、あることで、今、そんな苦悩の中に捕らえられています。もちろん、イエス様の味わわれた苦悩とは比ぶべくもありませんが、なぜ、自分が、こんな目に遭わなければならないのか?この苦しみになんの意味があるのか?今も、その途上なんですが、そんな中、以前にもご紹介した、ヴィクトール・フランクルの「それでも人生にイエスと言う」という本の中に次のようなことばがあったことを思い出しました。
「苦難と死は人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです。」
今朝の開会聖句とさせていただいたのは、皆さんもよくご存じの、イエス様の「山上の垂訓」の中の一節です。私が、今から約50年前に信仰に導かれた頃から、何度も聞かされ、自分でも読み、愛唱してきたみことばです。しかし、先程申し上げたような状況の中で、今まで自分はこれらのみことばから何を受け取ってきたのか。まったく理解していなかったのではないか。本当に今日という一日を、二度と戻ってこない大切な一日として生きて来たのか、と強く思わされました。そして、朝早く、目が覚めた時、自分のスマホに入れてある「聴くドラマ聖書」でこの箇所を改めて聴いていたんですが、その時、これらのみことばが、何というか、自分の心に、否、魂に強く迫ってくるように感じました。そして、これはもちろん、神秘体験とかではありませんが、復活のキリストがすぐ近くにいてくださるように感じました。最後に、今朝の開会聖句をもう一度読ませていただき、今朝の私の説教を閉じたいと思います。
「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります」(マタ6:34)。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌126番、特別讃美後:新聖歌129番
聖書交読
詩編50篇 1~6節
2024年教会行事
4月3日(水) オリーブいきいき百歳体操は都合によりお休みです。
#56-2914
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