なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<使徒の働き 2章1~13節>
牧師:砂山 智
開会聖句
私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。
<コリント人への手紙第一 12章13節>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:4/27 PM 10:58
メッセージ原稿を公開しました。
・『五旬節』というのはユダヤ教の収穫祭にあたります。ですから、1節にあったように、「皆が同じ場所に集まっていた」のです。旧約聖書の「レビ」には次のように書かれています。
『あなたがたは、安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主に献げる』(レビ23:15,16)。
今、読んだ中に「満七週間を数える」とあることから、この祭りは「七週の祭(シャブオット)」と呼ばれ、「過越祭(ぺサハ)」から始まる春の四つの祭りの最後を飾る祭りとされています。また、ギリシア語で、「五十番目」のことを「ペンテコステ」と言いますが、そのことから、キリスト教会では、今朝の出来事を「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」と呼び、初代教会(エルサレム教会)が誕生した日として祝っています。「クリスマス」と「イースター」は、ユダヤ教ではお祝いすることはありませんので、「ペンテコステ」だけは、ユダヤ教とキリスト教が同じ日にお祝いをしているということですね。ただし、その祝っている内容については、全く異なっているわけですが。
<本論>
1.風、息、聖霊
今朝、読んでいただいた箇所の前半部分は、何か大きな隕石のようなものが天から落下してきた様子のようにも思えます。実際、今から11年ほど前になりますが、ロシアのチェリャビンスク州というところでかなり大きな隕石が落下した時の様子をテレビで見た記憶があります。その時に起こったことと2,3節で描かれていることは似てるような気がします。
『すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった』(使徒2:2~3)。
もちろん、今朝の出来事は隕石の落下ではなかったのですが。2節に『激しい風』とありました。この『風』というのは、旧約聖書においては神様の霊を表すことばです。(ヘブル「ルーアッハ」)そして、このことばは「息」とも訳されます。「創世記」2章に次のようにあります。
『神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった』(創世2:7)。
また「エゼキエル」37章の不思議な幻。干からびた骨が生き返るという幻も、次のようにあります。
『神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、お前たちは生き返る』(エゼ37:5)。
その後の7~8節に書かれてあることなんか、ビジュアル的にはまるでホラー映画のようなんですが、これはバビロンによって滅ぼされ、奴隷の状態にあったイスラエルの民が、神の息によって解放され、国が再興されることを示した幻として受け止められています。そして、その幻は、今朝の出来事の「予告編」のようなものだったと言えないでしょうか。弟子たちは、突然、イエス様がいなくなって、希望も何もかもが失われ、まるで干からびた骨のようになっていたと思います。そんな弟子たちに神の息が吹きかけられた。つまり聖霊が降ったんです。そのことによって彼らは生き返り、天から力を得て、それまで人の目を恐れて、こそこそと家の奥に隠れていたのが、大胆にキリストを証しする者へと変えられたのです。
そして、もう一つ、3節にあった『炎のような舌』ですが、それが具体的にどのようなものであったのかは分かりません。ただ、この炎というのは、かつてモーセが目撃したという燃える柴の出来事を連想させるものです(出エ3:2)。それは神のご臨在を、神がともにおられるということを表すしるしでした。そして、その炎のような舌が一人ひとりの上にとどまった時、不思議なことが起きるのです。
2.他国のいろいろなことば(異言)
『すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた』(使徒2:4)。
この、新改訳聖書が『他国のいろいろなことば』と訳しているギリシア語の直訳は、「異なることば」です。「異なることば」、すなわち「異言」と言います。このしるしと言うか、賜物を特に強調し、重視する教会もあります。彼らは、「ペンテコステ派」と呼ばれることが多いのですが、天から聖霊のバプテスマを受けることによって特別な力をいただくことができる。そのしるしが「異言」ということです。世界には、特にアメリカや韓国には、「メガ・チャーチ」と呼ばれるような大規模教会がいくつもあります。その多くは、ペンテコステ派か、その影響を強く受けている教会です。私は今まで「異言」で祈ったことはありませんし、ここにおられる皆さんの多くもそうだと思います。ですから、正直に言って、よく分からないのですが、信仰は、確かに感情的なものであり、それがなければ成立しないと思います。ただ、逆に考えると、信仰はそれだけに、冷静さを失ってはならない、と言えるのではないでしょうか。なぜなら、冷静さを失うと、信仰は単なる自己陶酔のようになり、普遍性をなくして、ただの盲信となってしまうからです。しかし、その一方で、次のようにも言えるでしょう。冷静さを保つということだけにこだわると、人間の努力や判断や作為が前面に出て来てしまう。そうなると、信仰は頭でっかちの、冷たい、いのちを失った道徳のようになってしまう。本当に難しいですよね。ただ、聖書が、この「異言」などの御霊の賜物について語っていることは、何か特定の賜物だけを特別視して、他よりも優れたしるしのように受け止めることには問題があるということではないかと思います。例えば、「Ⅰコリ」12章以下で、パウロははっきりとそう語っています。
『あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう』(Ⅰコリ12:31)。
また、「ガラテヤ」5章でも、
『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません』(ガラ5:22,23)
と言っています。
<結論>
今朝のメッセージのタイトル「一つの御霊 一つのからだ」なんですが、そのタイトルも、「Ⅰコリ」12章13節から取りました。
『私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです』(Ⅰコリ12:13)。
旧約聖書の「創世記」11章に、有名な「バベルの塔」の出来事が記されていますが、その最後は、皆さんもよくご存知のように、混乱と分裂でした。天にまで届くような塔を建てて、自分たちの名を上げようと考えた人間たちに主は言われました。
『さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう』(創世11:7)。
それで彼らは混乱し、全地に散らされてしまったのです。このバベルとは「神の門」という意味ですが、「バビロン」とも訳すことができます。聖書で「バビロン」とは、人間の罪を表すことばです。私たち人間の世界に罪が入り、各々、自分勝手な道を歩むようになり、私たちは、神に背を向け、互いに殺しあう者となってしまった。今朝の「使徒」2章9~11節には、多くの人種や地域、国の名前が記されていますが、それらの地域のほとんどは、今でも紛争と断絶の中にあります。イスラエルとパレスチナはもちろん、シリアやリビア…。いつ終わるとも知れない憎しみの連鎖です。いや、それは、戦争は無かったとしても、私たちの国、日本でも同じではないでしょうか。そんなことを考えながら、今朝の「ペンテコステ」の出来事を読む時、神の国、神さまが支配される世界は、人種や民族、国や地域に関係なく、言葉の壁もなく、自由に話し合うことができ、時にはぶつかることがあったとしても、分かり合うことのできる世界であるということを、改めて思わされます。この地上における神の国の雛型は教会です。教会はキリストのからだと言われますが、ちょうど私たちの体の各部分は、それぞれが同じではないけれども、すべて合わさって一つであるように。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌136番、メッセージ後:新聖歌415番
聖書交読
詩編52篇 1~9節
2024年教会行事
4月17日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時~11時
#56-2915
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