なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<マルコの福音書 7章24~30節>
牧師:砂山 智
開会聖句
そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
<マタイの福音書 15章28節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:3/6 AM 10:11
メッセージ原稿を公開しました。
・「マルコ」からの2回目です。今朝の女性の話は、開会聖句の「マタイ」15章に平行記事があります。マタイは、彼女のことを「その地方(ツロとシドンの地方)のカナン人の女」(マタ15:22)と記しています。今朝の箇所には、
『彼女はギリシア人で、シリア・フェニキア(前の訳ではスロ・フェニキア)の生まれであった』
とありましたが、それはギリシア語を話す異邦人という意味であり、この女性はカナン(パレスチナ)の先住民で、イスラエル人にとっては敵として縁を断つべき人だったということです(エズラ9:1~2)。彼女の名前は「マタイ」にも今朝の「マルコ」にも書かれていません。ただ、両方の記事から分かることは、彼女には娘がいて、その娘は汚れた霊(悪霊)につかれて、ひどく苦しんでいたということ。そして、彼女はその娘のいやしを求めて、イエス様のもとにやって来たということです。
<本論>
1.きよいか、きよくないか
最初の24節にあった『ツロ』というのは、カぺナウムの北西64キロの地中海に面したフェニキア人の町で、その名前の意味は「岩」だそうです。それは、その町の沖合いに二つの大きな岩があったことから来ており、その岩は、天然の防波堤、或いは要塞の役割も果たしたことから、ツロは古くから有名な港湾都市、要塞都市として栄えたそうです。シドンもその少し北にあった同じような町です。フェニキア人というのは、地中海沿岸を船で行き来し、通商・交易を生業とする人たちでしたが、彼らは、星の導きによって航行することを発見した人たちとしてもよく知られています。
さて、イエス様がその公生涯で宣教活動をされた地理的な範囲は、もちろん例外はありますが、ほぼユダヤ・ガリラヤ地方です。それは言い換えれば、ユダヤ人が住む地域内で伝道をされたということですが、今朝の場面は、その例外である、異邦人が住む地域での伝道ということになります。そして、今朝の箇所のすぐ前には、イエス様とパリサイ人、律法学者たちとの論争が記されています。それは、食事の際の作法と言うか、食物がきよいかきよくないかという論争だったのですが、
7章19節後半には、『こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた』
とあり、イエス様が、当時のユダヤに言い伝えとしてあった、きよい食物と汚れた食物という区別を一掃されたということが書かれています。そして、それを象徴的なことと解釈すれば、当時のユダヤ人の間に根強くあった、きよい民=ユダヤ人、汚れた民=異邦人という区別をも一掃されたということにつながるのではないかと思うのです。実際、「使徒の働き」10章には、あのペテロが、大きな敷布のような入れ物に汚れた食物が入っている幻を見て、それを食べることを拒んだところ、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」という声が三度も聞こえて、その後でローマの軍人で異邦人の百人隊長コルネリウスにバプテスマ(洗礼)を授けたという話が残されています。今朝の「マルコ」の記事も、それと同じような文脈と言えます。
2.それを言っちゃあおしめえよ
ただ、それはそうとして、イエス様がこの女性からの切なる願いに答えられた最初のことばは、何と冷たいと言うか、見も蓋もないことばのような印象を受けます。
「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」(マル7:27)。
これはもちろん、子どもたちをユダヤ人。そして、小犬をこの女性のような異邦人にたとえて言われたのですが、もし、この場にあのフーテンの寅さんがいたら、「それを言っちゃあおしめえよ」と言ったのではないかと思わされました。「イエス様、それを言っちゃあおしめえよ」と。そして、もし自分がこの女性の立場だったら、頭にカっときて「ああ、そうですか。あなたの了見はよくわかりました。もう二度と顔も見たくありません!」と、啖呵を切って、とっとと帰ってしまったんじゃないかと。しかし、今朝の女性は違ったんです。
「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」(同7:28)。
まず、このやり取りの背景には、当時のユダヤの食卓での作法というものがあったということをお話ししておきたいのですが、当時はナイフやフォーク、スプーンや箸などはなくて、素手で食べ物をつかんで食べていたそうなんですね。それで、当然、手が汚れるわけなんですが、その汚れた手をパンの切れ端で拭いて、床に捨てていたそうなんです。何か、食べ物を粗末にしているようで、とてももったいないように思うのですが、その捨てられたパンを犬が食べていたのです。ただ、それはそうとして、これも今の私たちにはあまりピンとこないことなんですが、この「犬」ということばのイメージ。当時のユダヤやギリシアでは、犬ということばにあまり良いイメージはなかったみたいです。聖書にも有名なことばがあります。
「聖なるものを犬に与えてはいけません。―中略―犬や豚はそれらを足で踏みつけ~」(マタ7:6)。
これもイエス様のことばなんですが、今朝のイエス様のことばを注意深く比べてみると、小さな違いに気がつきます。それは、イエス様は「犬」ではなく「小犬」と言われたんですね。「犬」はギリシア語で「キュオーン」、「小犬」は「キュナリオン」と言うのですが、こういうのを、文法的には「指小辞」と言うそうです。名詞などの前や後につけて、「小さい」や「少し」という意味を表すもので、愛情や愛着、親しみやすさなどのニュアンスを込める場合と、逆に相手をバカにする場合にも使われることがあるんですが、大阪弁で言えば、「飴」を「飴ちゃん」と呼ぶみたいな、ですね。
そして、そのこと以上に私たちが見逃してはならないことがあります。それは、イエス様は「まず」と言われたんです。決してユダヤ人だけがきよい民で神に愛されていて、異邦人は汚れた民で神から嫌われているからパンは与えない、と言われたのではないのです。ただ、最初に福音が伝えられるのはユダヤ人だと、それだけなんです。そして、この後、明らかになってくるのは、そのユダヤ人のほとんどがイエス様の福音を拒み、小犬と呼ばれた異邦人が受け入れることになるということです。その予兆というか、偉大な魁となったのが、今朝のシリア・フェニキアの女だったんです。
<結論>
私がこの女性の信仰を通して示されたことが二つあります。その一つは、ユーモアです。今もご説明したように、27節にあったイエス様のことば、「指小辞」は、親愛の表現として受け止めることもできれば、軽蔑の表現として受け止めることもできることばでした。もちろん、私たちは、イエス様は前者のおつもりで言われたのだと分かるのですが、彼女は、どちらにも受け止めることができたと思います。それを彼女は、前者の表現と受け止め、ユーモアを交えた答えを返したのです。
「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」(同7:28)。
ここに、厳しい現実に直面しながらも、投げやりにならずに、何事も肯定的に受け止め、ユーモアで切り返そうとする明るい信仰があるように思わされました。私は、本当にその点が(も?)欠けていると、いつも思わされるのですが、あの柏木哲夫先生は、その著書の中で、多くの末期がんの方を看取ってこられた経験から、ユーモアの持つ不思議な力について、実例を交えて紹介してくださっています。先生によれば、ユーモアとは、「にもかかわらず笑うこと」であり、「愛と思いやりの現実的な表現」なんですね。
そして、今朝の女性の信仰から私が示されたもう一つのことは、自分も彼女のように、古い時代の常識にとらわれずに、新しい時代にふさわしい常識と、希望を抱き続けたいということです。福音は、まずユダヤ人に伝えられましたが、その後で異邦人にも伝えられ、新しい時代の幕が開きました。皆さんは、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」というイエス様のみことばをご存じかと思います。イエス様の福音・みことばこそ新しいぶどう酒です。それは、古い革袋、古い常識、古い希望の中に入れることはできないのです。私たちも、古い革袋ではなく、新しい革袋でありたい、と切に願います。
会衆讃美
開会祈祷後:新聖歌171番、特別讃美後:新聖歌233番
聖書交読
詩編44篇 1~8節
2024年教会行事
3月6日(水) オリーブいきいき百歳体操 10~11時
#55-2910
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