なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ヨブ記 32章1~22節>
牧師:砂山 智
開会聖句
神はすべての人の手を封じ込められる。神の造った人間が知るために。
<ヨブ記 37章7節>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が大変遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:12/9 PM 9:03
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「ヨブ」からの三回目です。前回、お話ししたヨブと三人の友人たちとの論争は3章から始まり31章まで続きます。その締めくくりは、ビルダデからのことばに対する反論とヨブの長い長い独白です。
1.ヨブの独白
27章をご覧ください。
『私は、私の権利を取り去った神にかけて誓う。私のたましいを苦しめた全能者にかけて。私の息が私うちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない。あなたがたを正しいとすることなど、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の誠実さをこの身から離さない。私は自分の義を堅く保って手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない』(ヨブ27:2~6)。
理不尽な試練に遭い、もだえ苦しむヨブを慰めようと訪ねて来た三人の友人たちでしたが、ヨブとやり取りするうちに、彼らのことばは次第に攻撃的になり、ヨブを責め立て、苛立たせるようになります。それは、ヨブが彼らの期待通りに応えてくれなかったからと言うか、自分たちの忠告を受け入れようとしなかったからです。様々なことばが語られますが、彼らの基本的な論調は、神は義なる方であり、ヨブの遭った試練は、彼が犯した罪に対する神のさばきであるというものでした。そのようなやり取りが延々と続き、本当に読むだけでうんざりするほどです。まして、当事者であるヨブの心情はいかばかりだったか?と思ってしまうのですが、私たちも、時に、苦しんでいる人がいれば少しでも力になりたい、励ましたいと思ってことばをかけたりすることもありますが、それが全くそうなっていなかった!逆に相手を深く傷つけ、苛立たせるようなことになってしまった。そんなこともあるのでは、と今更ながらに思わされました。そんな時、一番始末に負えないのは、「私はこんなにあなたのことを思って、あなたのために忠告してあげているのに、なんで分かってくれないのか…」と、いつの間にやら、相手の責任にしてしまう。自分の思い通りにならない相手に対して「愛がない!」と逆切れしてしまう。残念ながら教会ではそのようなことが往々にしてありますよね。私も何度かそのような経験があります。(証し)。そうなってくると、もう、「自分は正しい」「自分の言ったことは間違っていない」という、自分の正しさを、自分の意見の正当性を認めさせることが第一になって、なんとか相手に非を認めさせたいとうことで頭の中がいっぱいになってしまう。ヨブと三人の友人たちとのやり取りを読んでいて、そんなことを思わされたのですが、そんなやり取りに一人の若者が割って入ります。それが、エリフです。
2.エリフ参戦
エリフという名前は「彼は私の神である」という意味だそうですが、ブズ人とはアブラハムの兄弟ナホルの子孫ですので(創22:20~21)、彼は、異邦人であるヨブや三人の友人たちよりもイスラエルに近い人物であったと言えるでしょう。このことは、彼の語ることば、論調が、苦難に対するへブル的な神学をベースにしたものであるということを意味します。そう考えると、「ヨブ」におけるエリフの存在は大変貴重なものだと見ることもできます。彼の登場は本当に突然なんですが、実はかなり初めのほうから三人の友人たちと一緒にいて、傍らに座り、黙ってそのやり取りを聞いていたと思われます。エリフはヨブや三人の友人たちよりも若かったみたいですが、若者らしくと言ったらよいでしょうか、先輩たちの堂々巡りのような議論を聞いて、『怒りを燃やした』とあります。その怒りの原因は、ヨブが神よりも自分自身のほうを義としたこと。そして、そんなヨブに対して三人の友人たちが言い返せなかったことにあったようです。神から、「彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」とまで言わしめたヨブも、三人との論争を繰り返すうちに精神的に追い詰められ、おかしくなっていたのでしょうか。或いは、彼の本心は、あの新約の「ルカ」にある「放蕩息子のたとえ」に出てくる兄息子の様であったのかもしれません。つまり、極めて模範的にと言うか、道徳的に生きてきたのは、そのことと引き換えに、神から祝福を受けるため(財産を分けてもらうため)であったという。ですから、ヨブは、最後の最後に自分がよって立つ所。これだけは絶対に譲れないという一線、自分は正しいということを強硬に主張したのかもしれません。そんなヨブに、エリフは若者らしく、全く遠慮することなく、歯に衣着せずに語り始めます。新改訳聖書にはかっこがなく一段下げて書かれていますが、6節後半からが彼のことばです。それは37章の最後まで続きます。時に、感情に任せたような激しいことばもありますが、その結論は、先の三人の友人たちの結論よりも一歩進んだものであったと言えるでしょう。なぜなら、エリフの結論、主張を要約すれば、神は苦難を与えることによって私たち人間を訓練し、教えようとされるということだったからです。36章15節でエリフは次のように言います。
『神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる』(ヨブ36:15)。
これは、私たちには、苦しみの中でしか決して聞くことのできない神の御声がある、ということではないでしょうか。誰も自ら進んで苦しみに遭いたいと願う人はいない
でしょう。しかし、「詩篇」119篇71節にある
『苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより わたしはあなたのおきてを学びました』(詩篇119:71)
というみことばは真実なんです。
<結論>
そしてエリフは、その結論部分で、自然界に現れた神の栄光について語ります。36章26節から37章にかけてですが、その中の一節が今朝の開会聖句です。
『神はすべての人の手を封じ込められる。神の造った人間が知るために』(ヨブ37:7)。
このみことばには何を知るためかということが書かれていませんが、それは、神のみわざを知るために、ということですね。「すべての人の手を封じ込められる」とは、厳しい冬の寒さにということです。私は、昔は、冬は好きだったのですが、最近はそうでもなくなりました。しかし、神は、そんなに冬にもと言うか、そんな厳しい冬にこそ、ご自身の深い計画を秘めておられる。私たちは、その厳しい寒さの中で神のみわざに思いをはせることができる、ということですね。
あの「Ⅱコリント」12章で、パウロは、自分には肉体に一つのとげが与えられている。自分は三度もそれを去らせてくれるように主に願ったが、主は聞いてくださらなかった。
『しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう』(Ⅱコリ12:9)
と言いました。私たちは試練に遭った時、「なぜ、自分がこんな苦しみに遭わなければならないのか?」と神に問うてしまいますが、そうではなくて、「なんのために、神はこの苦しみを私に与えられたのか」と問わなければならないんですね。それが簡単に答えの出るような問いではなかったとしても、私たちは生涯をかけて問い続けなければならないのではないでしょうか。
新聖歌
開会祈祷後:68番、メッセージ後:70番
聖書交読
詩編32篇 1~11節
2023年教会行事
12月6日(水) オリーブいきいき百歳体操 10~11時
#55-2897
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