わたしがそれだ

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <ヨハネの福音書 18章1~11節>
    信徒:K

    開会聖句

    一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

    <コリント人への手紙第二 9章7節>

    メッセージ内容

    Youtube動画

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    メッセージ原稿を公開しました。  

    <はじめに>  
    ・1ヶ月飛びましたので、前回の内容を少し振り返っておきます。13章から十字架前日のイエスさまと弟子の一日が続いています。イエスさまは弟子全員の足を洗います。ユダの心の内を知っておられましたが、最後まで思いとどまらせようとされます。しかし、ユダは心を頑なに去っていきました。十字架へのカウントダウンの始まりです。イエスさまは残った弟子たちに長い告別説教をされ、長い祈りもされました。それはご自分のためでなく、目の前の弟子たちと、将来の弟子たちのためのとりなしの祈りでした。祈祷課題は「世から守ってください」と「一つにしてください」。ここまでが前回で、今日はこの続きのイエスさまが捕らえられる場面です。ここでも、ヨハネ福音書には他の福音書にはないユニークな記事があります。それを手がかりに、ヨハネが伝えたかったことを考えていこうと思います。主題は「イエスさまが名乗りでた理由」。

    <本論>
    I.弟子たちを守るため。

    1~3節 話を終えたイエスさま一行が、向かった先はキデロンの谷の向こうにある園。イエスさまと弟子たちには馴染の場所で、ゲッセマネのことです。ここへ、明かりをかかげた物騒な集団がやってきました。物騒というのは、その集団には兵士もいて武器も持っていたからです。ユダが先頭で、ユダヤの指導者たちがイエスさまを捕らえるためにローマの手も借りて、差し向けた人たちでした。イエスさまはここで彼らに捕らえられ縛られて、指導者たちの所に連れていかれます。今は写真というものがあって、捕らえようとする相手を間違うことはありませんが、昔は難しかったと思います。確かにイエスさまは公の場で説教なさいましたが、顔がはっきりわかる間近で見たのはそれほど多くはないでしょうから、絶対この人がイエスだと確定するのは困難だと思います。まして夜です。そのために利用されたのがユダでした。他の福音書では、彼の口づけがその決め手(合図)でした。しかしヨハネ福音書は、彼らが一言も発しない前に、イエスさまご自身が名乗りでられたと記しています。

    4節「イエスはご自分に起ろうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て『だれを捜しているのかと彼らに言われた。』」

    ここから繰り返されることばは、「わたしがそれだ」(5,6,8)です。イエスさまは、彼らの「ナザレ人イエスを」に対して、「わたしがそれだ」と答えられました。これには脚注に「エゴ―エイミ」と書いてあります。ヨハネ福音書に度々登場する神さまの自己紹介で、直訳は「わたしはある」「わたしだ」です。多くは「わたしはいのちのパンです」「よい牧者です」「世の光です」という形式で使われています。彼らが言った「ナザレ人イエス」ということばには、都市であるエルサレムから見て、地方出身者という蔑んだニュアンスがあります。しかし、「わたしがそれだ」は神さまの威厳と畏怖を感じさせることばでしたから、それを聞いた人たちは、

    6節「…彼らは後ずさりし、地に倒れました」。

    怖じ気づく彼らに、もう一度同じ問いかけをします。そして、

    7節「わたしがそれだと言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせなさい。」

    ここで、何故イエスが自分から名乗られたのかがわかります。それは弟子たちを守るため、この騒動に巻き込まれないようにするためです。イエスさまにとって弟子たちとは父のもので、父から委ねられたものです。

    6:39節では「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えて下さったすべての者を、わたしが1人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。」

    とありますから、イエスさまにとって、弟子たちはとても大切な預かりもの、何としても守るものなのです。イエスさまが名乗りでられた理由の一つは、弟子たちを守るためです。

    その後の

    10節「シモン・ペテロは剣を持っていたので……」

    もヨハネ特有です。新聞やマスコミで時々実名報道について議論があります。年齢への配慮、個人のプライバシー保護など、どこまで報道が赦されるのかということです。弟子の1人が剣を抜き、その集団の一人の耳を切り落としました。ルカとヨハネはそれが右耳であったと記し、ルカはイエスさまがその耳をくっつけられたことも書いています。一方ヨハネは、剣で怪我をさせた本人(ペテロ)と被害者(マルコス)の名前を記しました。これはこの後の、ペテロが3度イエスさまの弟子であることを否定したことに関係しているでしょう。ペテロは最初、門番の召使いの女性(17)に「あの人の弟子ではないでしょうね?」と疑われ、次は炭火で暖を取っていた人たち(25)に疑われ、3度めは、大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類(26)に疑われました。彼はこう言いました。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」恐らく、親戚だったその人は、現場にいたペテロの顔をはっきりと見たのでしょう。他の福音書では、ペテロへの疑いは「イエスと一緒にいた」(以前に)とか「ガリラヤ人だから」といった憶測の情報なのですが、ここでは確かな目撃情報、動かぬ証拠を突きつけられています。10節のことばは、ペテロを一見勇敢な人物に見せながら、何を言われても「弟子ではない」と言い張るペテロのとても情けない姿をことさらに暴きます。ここぞという時に、わが身を守る弱い人間の姿と、何としても弟子たちを守ろうとされたイエスさまの姿があぶり出されているようです。

    II.自発的な行為であることを示すため

    「わたしがそれだ」について、もう少し考えます。イエスさまは、裏切られ、捕らえられ、連れていかれ、十字架にかけられと、されるがままのように受け身に見えますが、十字架の道はイエスさまの自発的な行為です。「わたしがそれだ」ということばは、イエスさまが自ら進んでその道を選ばれたことを、強調していると思います。

    11節「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか」

    ということばは、十字架が命令だから仕方なくではなく、御父を信頼する思いと私たちを憐れむ心、神への愛と人への愛が、その動機であることを表していると思います。

    最近、キリスト教の世界でも隠れていた問題(ハラスメント、宗教2世)が表面化しています。こうなってくると、宗教は益々害のあるものと考えられても仕方がないかもしれません。一体何がおかしいのでしょう。一つには、多くの人たちが「宗教とは教えを守ること」と思っていることが問題だと思います。確かに、聖書に書いてあることを守ることは大切ですが、より大切なことは、それが自発的な行為であるか、神さまへの応答であるかどうかです。福音書は律法学者たちのうわべの忠実より、たった2レプタの献金、少年の貧素なお弁当、子どもたちの「ホサナ」の叫び、理解されないマリヤの香油などの自発的なささげ物を評価しています。
    今日の開会聖句は、

    Ⅱコリント9:7「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」

    です。神さまは人間をロボットのようには命令で動くものでなく、自由意志を持つものに造られました。それは大変なリスクをはらんでいたし、現にそれは的中し、十字架という犠牲を神さまが払う羽目になりました。それでも、そうしないと、神さまの望まれる関係を人間と持てないと考えられたのです。それほど、自由意志は価値あるものです。ですから、教会でも一人一人の考えや思いは大切にされなければなりません。それを宗教的権威で支配しようとするところに間違いが起るのだと思います。ただ、では一人一人が好き放題というのではありません。自分は神と人とに仕えて生きるものであるという意識が前提となります。

    先日、女性の集いがありました。今回はN姉の「本物のおもてなしにふれ、今を生きる」という証でした。この方はとても料理の上手な方で、2,3年前に中井貴一の「サラメシ」に出演。平日の教会で、先生スタッフ5名ぐらいの昼食を用意されている様子を映したものでした。姉は定年前に献身され、教会のスタッフとして長く教会に仕えておられます。書も絵もかなりの腕前ですが、一番の賜物は「おもてなし」です。お寺に生まれ、物心のついた時から、家(寺)に誰かが来ていてお父さんと話し、食事時にはお母さんが食事を作られていたそうで、自然とおもてなしが身についたそうです。しかし、イエスさまを信じて「本物のおもてなし」にふれたと言われました。それまでは、自己満足、自分の義をたてるといった自己中心のおもてなしだったそうです。大きな試練の中で、「疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。」というみことばに導かれ、教会に来て、イエスさまの「本物のおもてなし」を経験されました。それは、姉にこれから生きていく希望や力を与え、今も神と人とに仕えておられます。

    <おわりに>

    私たちも自分の自発的な思い、人の自発的な思いを大切にして、神と人とに仕えましょう。時には自分の思いを捨てるという痛みを伴うこともありますが、その痛みは神さまへのささげものです。そうやって、生みだされる愛の関係こそ、神さまに喜ばれるものだと思います。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF248KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:8番、メッセージ後:259番

    聖書交読

    詩編30篇 1~12節

    2023年教会行事

    11月29日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2896

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2023年11月25日 at 9:48 PM -

    信徒Kさまが紹介下さっている、MB女性の集い2023の動画が、12月15日(金)まで期間限定で視聴できます。
    ぜひ、こちらもご覧になってみてください。
    https://www.youtube.com/watch?v=2Fk5tvAaenk