なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<列王記 第一 19章1~12節>
牧師:砂山 智
開会聖句
地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。
<列王記 第一 19章12節>
メッセージ内容
https://youtu.be/rAPugVwguCo
Youtube動画
公開が大変遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:10/22 AM 3:50
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「Ⅰ列王記」からの5回目です。前回のメッセージは17章からでした。エリヤがアハブからの報復を逃れるため、主の命によってケリテ川に隠れ、烏に養われ、そして、シドンのツァレファテという異教の地で一人のやもめによって養われたという。その後の18章で、エリヤは宮廷長官オバデヤの仲介でアハブと再び相まみえることになります。そして、カルメル山でバアルやアシェラの預言者たちと対決することになり、見事に勝利を収めるのですが…。
今朝の話は、その後の話です。「日々のみことば」の執筆者の方は、今朝の箇所の説明に面白いタイトルをつけていました。それは「人間だもの」。「相田みつをか!」と一人で突っ込んだのですが、今朝は、その人間エリヤに焦点を当てて見てゆきたいと思っています。
1.起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから
しかし、考えてみれば、旧約聖書に登場する預言者の中でも、エリヤほど「人間離れ」した預言者もいないのではないかと思います。旧約の最後の書簡である「マラキ」に次のようなみことばがあります。
『見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅すことのないようにするためである。」』(マラ4:5,6)。
イエス様は当時の人々からエリヤの再来(生まれ変わり)と言われましたが、それはこのみことばに由来するんですね。また、「(共観)福音書」の、所謂、「山上の変貌」の場面で(「マタイ」17章他)、光輝く姿に変貌したイエス様と話し合っていた二人の人物はモーセとエリヤでした。
これらのことからも、エリヤという預言者が、どれほど特別な存在であったかということがわかるかと思います。そんなエリヤの生涯で最大の出来事、メインイベントと呼べるのが、最初にお話ししたバアルの預言者たちとの対決です。彼は、イゼベルの息のかかったバアルの預言者450人とアシェラの預言者400人を相手に、たった1人で立
ち向かい、天から火を呼び下すという、まさに度肝を抜く奇跡で見事に勝利を収めるのです。しかし、しかしです。そんなエリヤが、今朝の聖書にあったように、その直後に、あのイゼベルからの一言、脅しの言葉を聞かされただけで恐れ慄き、一目散に逃げ出してしまうのです。何という落差でしょうか!!本当に、何度読んでも不思議だなぁと思わされる場面です。
ただ、この時のエリヤの姿は、ある意味、我々人間の真実の姿と言うか、全ての虚飾をはぎ取ったありのままの姿と言うことができるのではないか、とも思うのです。まさに「人間だもの」。あのエリヤも、決して超人ではなかったんです。
2.燃え尽き症候群
ある方は、この時のエリヤを、「燃え尽き症候群(バーンアウト)」のような状態にあったのだろうと推測しておられました。確かにそうかもしれません。「燃え尽き症候群」とは、対人関係などに由来する過剰で慢性的なストレス刺激を受けた結果生じる情緒的消耗感(全精力を出し尽くして消耗してしまった状態)で、主に、対人サービス従事者が献身的に努力したにもかかわらず、期待した結果が得られなかった時に感じる徒労感や欲求不満。或いは、努力の結果、目標を達成したあとに生じる虚脱感などを指す、とありました。私は、その解説から、子どもの頃に読んだ「あしたのジョー」の最後の場面を思い出しました。完璧なチャンピオン、ホセ・メンドーサと戦って全力を出し切り、真っ白に燃え尽きてしまったジョー。自分にはそんな経験はありませんが、牧師なんか一番危ないそうです。そして、その「燃え尽き症候群」から回復する方法として、三つのことが挙げられていました。①環境を改善する。②気づくことが回復のヒント。③終わりではなく出発点と考える。今朝の場面で神様がエリヤにされたことは、まさにこの三つですよね。聖書には書かれていませんが、エリヤが横になって休めるようなエニシダの木を用意されたのは、もちろん神様でしょう。そして、御使いはエリヤに、「がんばれ!これぐらいでへこたれるな!」とは言いませんでした。
「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」(Ⅰ列王19:7)
と励ましたのです。それは、燃え尽きて燃えカスのようになったエリヤに寄り添い、その回復を待ち、これは旅の終わりではなく出発点だと気づかせることだったのだ、と思わされました。(足跡フットプリント)。御使いは、否、神様は、時にエリヤの同伴者となり、そして時には背負い、彼が立ち直るまでじっと待ってくれたのです。
エリヤとは比ぶべくもないですが、私たちも、この日本というクリスチャン人口が1%にも満たない異教社会で信仰の歩みを生涯に渡って続けて行くということは本当に大変なことですよね。神は今朝、そんな私たちにも言ってくださるのではないでしょうか。「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と。
<結論>
さて、エリヤは、そんな神からの励ましによって力を得、四十日四十夜旅を続け、神の山ホレブに辿りつきます。その山は、かつて、あのモーセが十戒を授かった山でした。エリヤはそこで不思議な経験をします。9節から、もう一度ご覧ください。
『彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった』(Ⅰ列王19:9~12)。
エリヤはまた、凄まじいばかりの自然現象・天変地異を目の当たりにします。激しい大風、地震、そして、最後には火があった(噴火?それとも、バアルの預言者と対決した時のように、天から火が降って来た?)。けれども、そのような凄まじい天変地異の中に神はおられなかったのです。そして、その後に、かすかな細い声が聞こえてきたんですね。(情報過多社会)。(自分に語られたことばとして)。
「かすかな細い声」。それはもちろん、一般論のように聞くものではなく、単なる聖書のことばの解釈でもなく、私個人に対して、あなた個人に対して、神が特別に語られたメッセージのことです。時には、正直、受けとめることさえ難しいと感じる時があるかもしれません。それでも、私たちは耳を澄ませて、その神様の「かすかな細い声」に聞き従う者でありたいですね。
新聖歌
開会祈祷後:191番、メッセージ後:222番
聖書交読
詩編24篇 1~10節
2023年教会行事
10月18日(水) オリーブいきいき百歳体操 10~11時
#55-2890
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