なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<マタイの福音書 5章38~48節>
MB寝屋川キリスト教会牧師:大山 明
開会聖句
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
<マタイの福音書 16章24節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:7/30 PM 6:22
礼拝メッセージの要約を公開しました。
私たちは毎日色んな判断をして実行に移します。小さなことのくり返しです。そしてその一つひとつの選択や決定が、私たちの人生に大きな影響をもたらしていくのです。
エベレストの頂上で瀕死の登山者を救助するようなドラマチックなものでなくても、例えばその日、誰と一緒に過ごすのかを決めなければなりません。誰と何をするのか。また自分のしたいことをするのか、あるいは自分を犠牲にして他の人を助けるのか。そうした選択はよくあることです。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。マタイ 16:24
私たちは神の恵みに満たされ、その応答として神にささげる生き方を選ぼうとします。でもほんとうにそのような生き方を実現できているでしょうか。自分に与えられている立場や賜物、時間やお金をどのように使っているでしょうか。
イエスの言葉から学ぶ「ささげる」ための秘訣は自分を捨てることです。私たちは自分の思い通りになることが幸せだと考えますが、イエスが言っているのは全く逆です。「仕える人が偉大な人」、「最後の者が最初になる」、「自分よりも他の人が優れていると思いなさい」、そして今日の箇所には「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」「1ミリオン行けと言う者とは、もう1ミリオン行きなさい」とあります(マタイ 5:41)。
当時イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人はローマ人の命令に従わなければなりませんでした。ですから人々は、戦うか、逃げるか、我慢して言うことを聞くか、この3つの中からどれかを選ばなければなりませんでした。ところがイエスは第4の道を示されました。それは「仕えなさい」ということでした。
1. 1.5キロ先の会
なぜならローマ人は、ユダヤ人に1ミリオン (約1500メートル )を行くようにと命令したからです。つまり 1.5キロです。ローマ軍の兵士がやってきて、無理矢理荷物を背負わせ、1.5キロ歩かせるのです。イヤに決まっていますが、従わなければもっとひどい目に遭います。だから多くの人が苦しんでいました。ところがイエスは「もう1.5キロ行きなさい」と教えたのです。
そういう人が新しい会「さらに1.5キロ先を行く会」のメンバーになれます。多くの時間を使い、犠牲を払って神と人とに仕え、ささげる生き方を選んでいる人が会員です。
2. 1.5キロ先の秘密
会員になれる人の秘密は「さらに奉仕する喜びを知っている」ことです。「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒 20:35)と記されている幸せを知っている人です。
1.5キロをイヤイヤ歩くなら誰でもできます。さらにその先の 1.5キロを歩こうとする人はなかなかいません。その1.5キロ先にこそ素敵なことが待っています。言われた以上のことをすると考え方が変わり、喜んでできるようになるのです。
それはプレッシャーと命令から解放され、自由な人にレベルアップするからです。頼まれた以上のことをすると変わるのです。「もう 1.5キロ先に喜びがある」。これが、イエスがもっとも言いたいことです。ほんとうの祝福はさらに1.5キロ先に埋もれているのです。
そして自分が変われば、周りも変わってきます。ゆっくりだった時間が早く感じられ、興味や関心も幹がってきます。新しいことを発見し、喜びが大きくなっていくのです。
3. さらに 1.5キロ先へ進むために
①お返しを求めない
1.5キロ先の会メンバーは、お返しや見返りを期待しません。イエスが十字架にかかる直前、マルタとマリアがイエスを食事に招きました。沢山のご馳走を用意してもマリアはまだ十分でないと感じました。そして高価なナルドの香油をイエスの足に注いで、自分の髪の毛でそれをぬぐったのです(ヨハネ 12:3)。
イヤイヤではなく進んでそれをする時に喜びが生まれます。毎日自分を捨てて十字架を背負い、他の人に仕えるのです。お礼や感謝を期待してはいけません。誰にも気付かれなくてもそうするのです。
②人が嫌がることを進んでする
自分から進んで問題を解決しようとすることは大変です。しかしそうする時に、たくさんの祝福があるのです。
③自分に勝利する
モーセは自分に勝利した、歴史上最も優れたリーダーでした(民数記 12:3)。神はマリアのお腹を借りましたが彼女は自慢しませんでした(ルカ 1:38)。バプテスマのヨハネもそうでした(ヨハネ 3:30)。
私たち一人ひとりは価値ある存在です。しかし主役ではなく脇役に過ぎません。神だけがすべての中心だからです。神は私たちを通して御業を行われます。神は私たちに、この世に神の国をもたらすという役割を与えているのです。それは瀕死の登山家を助けることです。自分を捨て、十字架を背負い、お返しがなくても、進んでキリストに従うのです。自分に与えられている立場、賜物、時間、お金などを自分だけのためでなく、神と人のために使うのです。
新聖歌
開会祈祷後:266番、メッセージ後:396番
聖書交読
詩編10篇 1~13節
2023年教会行事
8月21(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時
#55-2879
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