あらゆる民の祈りの家

    令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
    なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

    メッセージ

    <エレミヤ書 7章1~15節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」

    <マタイの福音書 21章13節>

    メッセージ内容

    Youtube動画

     公開が遅れて申し訳ありません。
    メッセージ動画公開:7/17 PM 9:14


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・「エレミヤ」からの二回目です。今朝の7章から28章まではエホヤキム王の時代の預言になります。特に今朝の箇所は、エルサレム神殿でのエレミヤの説教の場面です。弟子のバルクによって記された26章が今朝の箇所の平行記事とすると、これはエホヤキム王が即位した紀元前609年の出来事ということになります。

    <本論>
    1.エホヤキム

    先週、お話ししましたように、エレミヤが預言者として召されたのは善王ヨシヤの時代でした。ただ、ヨシヤ王は紀元前609年にガリラヤ湖の南西約40Kmのメギドでエジプト軍と戦い戦死してしまいます。このメギドの戦いは、その4年後に行われたカルケミシュの戦いの前哨戦とも言える戦いでしたが、それは古代オリエント地域の覇権がアッシリアからバビロンへと移る戦いとなりました。ユダの国では、ヨシヤ王の死後、息子のエホアハズが王となります。しかし、彼は即位後僅か3か月でエジプト王ネコによって退位させられ、エジプトまで連れて行かれ、その地で亡くなります。そして、その後を継いだのがエホアハズより2歳年長の異母兄エルヤキムでした。エルヤキムは、即位する際、やはりネコによって名前をエホヤキムと改めさせられます。そのことから見ても、この頃のユダの国はエジプトの属国のような立場に置かれていたということがお分かりいただけるかと思います。そのエジプトも、先程、お話ししたカルケミシュの戦いでアッシリアとともにバビロンに敗れ、その力を急速に失ってゆくのですが、それは少し後の話になります。

    2.主の宮だ
    今朝の場面で主の宮の門の前でこのことばを叫べ、と言われたエレミヤの第一声は、3~4節にあった通りです。

    『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない』(エレ7:3~4)。

    「主の宮」ということばが三度も繰り返され、その偽りのことばに信頼してはならないと警告されています。これは一体何を意味しているのでしょうか。ユダの人々の信仰回復を目指して熱心に改革を進めてきたヨシヤ王でしたが、エジプトとの戦いであっけなく戦死し、その後の王を選ぶにあたってもエジプト王ネコの好きなようにされてしまった。今、ユダの人々は大きな挫折感を味わっていたことでしょう。そんな彼らにとっての最後のよりどころとなったのが、あの偉大なソロモン王が立てた神殿でした。偽預言者はそんな彼らの思いを敏感に察知します。ユダの人々の気に入るような預言を、過去の成功体験と言うか、過去の奇跡の再現を期待させるかのような偽りのことばを吹聴したのでしょう。「Ⅱ列王」18~19章に書かれていますが、今朝の時代から90年ほど前の紀元前701年に、アッシリアの王センナケリブがユダに攻め寄せてきた時、時の王であったヒゼキヤは敵の将軍ラブ・シャケから突き付けられた降伏勧告とも言える手紙を持って神殿に上り、それを主の前に広げて必死に祈ります。その時、奇跡が起きたのです。

    『その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた』(Ⅱ列王19:35)。

    日本でも、先の大戦の末期には「神風が吹く」ということがよく言われたそうですが、今朝のユダの人々も、偽預言者のことばに乗せられ、ヒゼキヤ王の時代の奇跡の再現を期待していたのではないかと思われます。この時、神殿に集まっていた人々は、律法で命じられている通りのこと、神殿での祭儀(宗教儀式)を守り行ってさえいれば、神はきっと外敵を打ち払い、自分たちの国を守ってくださるだろうと考えていたのでしょう。しかしそれは残念ながら、間違った確信と言うか、単なる盲信に過ぎなかったのです。彼らが聞いたエレミヤからの預言は実に意外なものでした。

    3.祭儀よりも公正

    『もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる』(エレ7:5~7)。

    エレミヤが告げた主のことばには、神殿における祭儀(宗教儀式)のことなど一言もありませんでした。神がエレミヤを通して告げられたことは、神殿でこのわたしのために全焼のいけにえを献げよということではなく、お前たちの生き方と行いを改め、社会的に弱い立場に置かれている人々を虐げず、公正な裁きを行い、ほかの神々を拝むな、ということだったのです。
    あのダビデ王は、「詩篇」51篇で次のように歌っています。

    『まことに 私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず 全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません』(詩51:16~17)。

    今朝の開会聖句のイエス様のことばにあった「強盗の巣」というのは、この時のエレミヤの11節のことばから引用されたものです。そして神は、かつて神殿が建てられる前の時代に幕屋が置かれ、契約の箱が置かれていたシロという町を例に挙げ、もし、あなたがたが悔い改めないなら、わたしはシロにしたのと同様のことを行う、と警告されるのです。「Ⅰサムエル」4章には、サムエルの時代にシロに置かれていた契約の箱が、当時のイスラエルの驕りと不信仰のゆえに、敵であるペリシテ人に奪われ、シロという町も滅びてしまったことが書かれています。

    <結論>
    そして、もう一つ、今朝の開会聖句のイエス様のことばの前半で引用されている『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』ですが、これは「イザヤ」56章7節からの引用です。

    『わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ』(イザヤ56:7)。

    この「イザヤ」56章は、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民が持つ礼拝や信仰の表現形式を用いながら、終末の神の民について預言したものだと言われています。あらゆる民の祈りの家、それがわたしの家なのだと主は言われるのです。この分断と欺瞞とに満ちた世界。不正が横行し、寄留者や孤児、やもめが虐げられ、咎なき者の血が流されるこの世界も、やがてそのような終末の時を迎えるのだと聖書は預言しているのです。
    いつも、「日々のみことば」の表紙の写真とCOVER STORYを担当してくださっている関野祐二先生の言葉に励まされているのですが、今月号の最後には次のように書かれていました。

    「圧倒的な力の支配で非業の死を遂げた人々は、現代でも世界のあちこちにいます。ユダヤ人も異邦人もなく、との福音をかみしめつつ、平和の君イエスとともに今日も出発です。」アーメン!主よ 来たり給え!

    メッセージ内容のダウンロード(PDF106KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:355番、メッセージ後:498番

    聖書交読

    詩編8篇 1~9節

    2023年教会行事

    7月19日(水) オリーブいきいき百歳体操

    #55-2877

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