なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<ローマ人への手紙 10章1~4節>
牧師:砂山 智
開会聖句
聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
<ローマ人への手紙 10章11節>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:6/17 PM 9:03
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「ローマ人への手紙」からの二回目です。この手紙を読んでいると、同胞ユダヤ人に対する著者パウロの熱い思いが強く迫ってくるように感じます。今朝の冒頭のことばもそうですが、一つ前の9章の最初でもパウロは次のように言います。
『私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています』(ローマ9:1~3)。
実に激しいことばです。パウロがどれほどユダヤ人の救いを願っていたかということがストレートに伝わってきます。先週は「神の答え」と題してお話しましたが、ユダヤ人は、神の答えであるイエス・キリストを拒絶したのです。9章の最後には次のように書かれています。
『しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです』(同9:31~32)。
このつまずきの石こそキリストです。その後の33節は旧約の「イザヤ書」からの引用ですが、先週もお話ししたように、旧約の教えを何よりも大切にし、守ってきたユダヤ人が、言わば、その答えであるイエス様につまずいてしまった。そして、本当に皮肉なことなんですが、そのつまずきの原因となったのが、彼らの熱心だったのです。今朝の2節に次のようにある通りです。
『私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません』(同10:2)
1.信仰至上主義
昨年の7月8日に安倍元首相が選挙の応援演説中に銃撃され、殺害されました。もうすぐ一年が経とうとしています。あの日、私は教会にいたのですが、事件の一報が飛び込んできて、本当に驚きました。そして、しばらくして、犯人の山上被告の供述の内容、ある宗教団体への恨みが事件の背景にあったということを知りました。各メディアは当初、その宗教団体の名前を伏せていましたが、私はすぐに、それは「統一教会」のことだろうとピンときました。それは、いつの頃だったかは忘れましたが、少し前に、インターネットで、統一教会と安倍元首相との関係を取り上げた記事を読んだ記憶があったからなんですね。その関係の始まりは安倍元首相の祖父の岸信介元首相と教祖の文鮮明にまで遡ることができるのですが、この事件は、私たちクリスチャンにとって、決して無関心ではいられない事件だと思います。ある意味、あの「オウム真理教事件」以上に、私たちの信仰の在り方について考えさせられた事件ではないかと思うのです。そして、それは現在も続いています。山上被告の生い立ちや、信者となったお母さんについて様々なことが報道されるたびに、なんであんなにまで借金したり、自己破産するまで、高額な献金を献げるのかなぁ、と思ってしまうのですが、私は、さっきの箇所にあった、その熱心は知識に基づくものではないというみことばを読んだ時に納得したというか、そういうことかと思わされたんです。統一教会に高額な献金を献げる方々は、ある意味、純粋に信じてというか、信じさせられて、そのように熱心に献げておられるんだろうなと。しかし、その人たちを騙す側、あのハン・ハクチャとかいう総裁やそれを取り巻く幹部連中は、恐らくそんなこと信じていないでしょう。「亡くなったあなたの家族の霊が地獄で苦しんでいる。あなたが多く献金することによって、その霊は救われる」なんて。彼らは、自分たちの金儲けのため、自らの権力を維持するために、そのようにして何かしら心に悩みや問題を抱えた人たちに取り入り、マインドコントロールしてきたわけです。そして、一方で、そんな連中と、選挙のために持ちつ持たれつの関係を続けてきた日本の政治家たち。本当に考えれば考えるほど頭にくるというか、許せない思いになるのですが…。もちろん、今、お話しした「知識に基づかない熱心」とか、その後の3節の「自らの義を立てようとして、神の義に従わなかった」とパウロが言っているのは、当時のユダヤ人のことなんですが、私自身、皆さんもそうかもしれませんが、心のどこかで、自分はそんなユダヤ人とは違う、統一教会とは違うと思っているわけです。行いによってではなく、信仰によって義とされるという「信仰義認」が私たちの信仰だと。ただ、先週、お話ししたこととも重なるのですが、それが本当に、いつの間にやら「自分の信仰至上主義」と言いますか、「自分の信仰の力で。自分の熱心さで…」みたいなことになってはいないかなぁ、と思う時があるんです。
2.神の領域
以前にもお話ししたと思いますが、工藤信夫先生の本に次のような話が載っていました。あるクリスチャンのご婦人が乳がんになられて、しばらくして工藤先生のところに訪ねてこられて次のように言われたそうです。「先生、私は教会員の電話も、また教会に行くのも怖いのです。いや、怖くなってきたのです。特に、牧師夫人の一言が…」。その方が出席しておられた教会は、祈りによる癒しを強調する教会だったそうで、初めは自分の病気の癒しのために教会の皆さんが熱心に祈ってくださることに励まされ、感謝な思いで一杯だったそうですが、そのような熱心な祈りに反してというか、皆さんの期待に反して、なかなか彼女の病状は良くならなかったそうです。そうすると、少しずつ周りの空気が変化してきたように感じられたんですね。それは、その病気が良くならないのは、彼女の祈りが足らないからではないかとか、信仰が足らないからではないかとか、そういう雰囲気と言うか、もっと言えば詮索や叱責するような雰囲気まで感じられるようになってきたんです。これはたまったもんじゃないですよね。重い病気を抱えているということだけで本当に大変なのに、教会の交わりを通してさらなる心の負担を抱えてしまうという。工藤先生はその話を聞いて、次のように言って、その方を励まされたそうです。
「癒されるか癒されないかは、残念ながら私たち人間にはわからない神の領域でしょう。絶対に癒されるなどとはだれにも断言できないからです。私たちにできることは、願い、祈り続けることだけだと思います。でも一つ確かなことは、癒されないからといって恥じる必要はないということです。病を負いつつ生きることもまた、間違いなく神の栄光の一つに違いないからです。私は、これまで長い自問自答の末、この病気を体験したからこそ神に出会うことができた、自分を見直すことができた・・・、病もまた神の栄光の現れだった、と明言した人々に何度か出会ってきました。」i
i 「真実の福音を求めて 信仰による人間疎外その後」工藤信夫著 いのちのことば社 p13
3.信仰の重点は神
先週もお話ししましたように、神からの答えは、ひとり子であるイエス様をこの世に遣わしてくださったことによって、既に示されました。あの「ヨハネの福音書」3章16節のみことばにあるように、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を、そして、この私を愛してくださったのです。ですから、神は、私たち以上に、私たちに必要なものは何であるのかをご存じです。そういう神に対して私たちが熱心に祈るとはどういうことなのでしょうか?もし、私の熱心が神を動かすとか、私の熱心が何かを生み出すということであれば、それは重点が神ではなく自分になっているのではないでしょうか。けれども、キリスト教の、私たちの信仰の重点は私たち自身にではなく神にあります。私たちの信仰は、神がこうしてくださったという神の出来事、神の愛から始まったからです。私の熱心が神を動かすとか、私が何か善い行いをしたから神は私の願いを聞いてくださるだろうというのは、聖書の、そして、私たちの信仰ではないんですね。
<結論>
今朝の開会聖句も、そのことを示してくれています。
『聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」』(ローマ10:11)。
そうです。この方に信頼する者は、なんです。「イザヤ書」に、
『人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか』(イザヤ2:22)
というみことばがありますが、自分の熱心やあの人の熱心、立派な牧師や伝道者の祈りに信頼する者は、だれも失望させられることがない、ではないんです。この方に信頼するとは、イエス様の十字架によらなければ自分はどうすることもできないと口で告白し、心で信じることではないでしょうか。もし、心のどこかに、自分自身に信頼するというか、神ではなく、人間の熱心や努力により頼もうとする思いが少しでもあるなら、それは神を、神の愛を冒涜していることになるでしょう。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」。それが、聖書が言っていることなのです。
新聖歌
開会祈祷後:206番、メッセージ後:366番
聖書交読
詩編3篇 1~8節
2023年教会行事
6月14日(水) オリーブいきいき百歳体操・午前祈祷会は都合によりお休みです。
#55-2872
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