世は憎むが…

令和5年5月8日(月)より新型コロナウイルス感染症が5類感染症へ移行することに伴い、礼拝での規制を緩和します。具体的には、会衆讃美は全節歌唱する、省略していた聖書交読を復帰し、司会者朗読→会衆朗読を交互に行います。
なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。

メッセージ

<ヨハネの福音書 15章18節~25節>
信徒:K

開会聖句

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

<ヨハネの福音書 3章16節>

メッセージ内容

Youtube動画

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 メッセージ原稿を公開しました。 
 

<はじめに>  
・5月の教会カレンダーの日曜日には、2つの記念日があります。一つは母の日。もう一つが今日のペンテコステです。クリスマスやイースターより、はるかに地味ですが、私たちにとってはすごく大切な「教会の誕生日」です。聖霊が弟子たちの上に注がれたというこの日は、ユダヤ人たちにとっては五旬節という祭の日で、大勢の人がエルサレムに集まっていました。五旬節は、彼らの先祖たちがエジプトから脱出して50日目、モーセがシナイ山で神さまから十戒を与えられたという記念の日です。「神の契約の民の誕生日」と言えるかもしれません。聖霊が注がれたときの様子は、あのシナイ山のときと似ていて、激しい風と音、その響きに山が揺れるように家が揺れ、一人一人の上に炎のような舌がとどまったと、使徒2章に書かれています。聖霊を注がれた弟子の一人であるペテロが、大きな物音に驚いて集まった人々に大胆に説教すると、多くの人が心を打たれ、3千人ほどが仲間に加えられました。エルサレム教会の誕生です。それから毎日仲間が加えられたのですが、それを阻む問題も起きてきました。今日はイエスさまの迫害予告です。主題は「世がイエスと弟子たちを憎む理由」です。

<本論>
Ⅰ.世が弟子たちを憎むのは、弟子たちがこの世のものではないから。

先月は、「イエスさまはまことのぶどうの木です。」という話でした。そのぶどうの木につらなる私たちは切り落とされる枝ではなく、刈り込まれて豊かな実を結ぶ枝で、イエスさまが私たちを選んだと力づけてくださいました。そして、実を結ぶために「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と戒めを与えられました。弟子たちはイエスさまに愛される幸いを経験した人たちですから、ぜひ、そうしていこうと思ったに違いありません。そうすることで、わたしの弟子とわかるとも言われています。ところが、そう命じたあと、

18節「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。(知るのです)」

と、彼らの出鼻をくじくようなことを言い始められました。ここで繰り返されることばは、「憎む」と「世」です。

愛するということは、簡単ではありませんね。感情ではなく、意志を働かせることですし、何より相手は自分と違った考えをもっていますから、たくさんの失敗をします。自分の過去を振り返っても、なんと愛が足りなかったか、また愛していると思っていても、独りよがりの愛であったことなどが思い出され、穴があれば入りたいと思うような記憶がたくさんあります。クリスチャンはえてして、愛の人になりたいと、愛を振りかざし押しつけて、周囲の人を傷つけることがあります。しかし、イエスさまは、弟子たちの愛の未熟さのために、世が憎むのではない。憎まれる理由は、弟子たちが世のものでないから、わたしが世から選び出したものだから、と言われました。

GWに水族館に行きました。朝一番に入ったのですが、時間が足りず、一旦外に出て、昼食をとることにしました。そこでは、再入館できるように、手の甲にスタンプを押すようになっていて、目に見えないスタンプで、さっと洗ったぐらいでは落ちません。再び入るときには、特殊なライトで照らすとスタンプが浮かび上がり、入館できます。 パウロは私たちには、そういう肉の目で見ることのできないスタンプが押されていると言います。

エペソ1:13「…救いの福音を聞いて信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」

ペンテコステの日に注がれた聖霊は、信じる者すべてに与えられていて、私たちが世のものでなく、イエスのもの、神の国に属するものという目に見えない印です。そして、神の国に属する私たちは、この世にあって、神の価値観を追い求める者です。

世の価値観と神の価値観とはどう違うのでしょう。エデンのあの時以来、人間は神の考えを退け、人間の考えで生きることを選びました。朝の連ドラ「らんまん」の主人公は、人々の関心の薄い雑草の一つ一つに目を注ぎ、話しかけ、名前をつけていきます。神さまがエデンで人間に与えた最初の仕事は動物に名前をつけることでした。名前をつけることは、その存在と価値を認めることです。よい牧者が一匹一匹の名を呼んで羊を連れ出すように、神の国では、一人一人が名前で呼ばれ、尊重されます。しかし、世はそうではありません。力のある一部の者が大勢を支配し、自分たちの都合で弱い立場の人の存在を無視します。また、世は結果を出せ、結果よければすべてよしと言われます。しかし、パウロはこう言います。

Ⅰコリント4:5「ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはなりません。主は闇に隠れたことがらも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。」

神が最終的な裁きをされるということで、「隠れたことがらも…明るみに」は、私たちを怖がらせますが、最後には称賛が与えられるとあります。この世に生き、未完成の私たちの心には、確かに悪があります。しかし、神さまは、結果にはつながらなかった、うまく行かなかったけれども、誰にも見えていない隠れたところの私たちの良い志に目をとめ、そこを評価をしてくださるのです。神さまのまなざしは、結果だけを見て評価し、切り捨てていくのとは正反対で、神さまは人を育て、生かす方です。この世の競争原理とは方向が違います。私たちはイエスのものとして、神の価値観で生きることを追い求めましょう。

Ⅱ.世がイエスを憎むのは、その名のゆえである。

次は弟子たちの迫害について見ていきましょう。

16:2「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思うときが来ます。」

クリスチャンの迫害と言えば、ローマ皇帝ネロによるものを思い出すかもしれません。パウロやペテロはこの迫害で殉教したと言われています。しかし、はじめの迫害は同国人によるものでした。著者ヨハネは、イエスさまが父のことを話し、誰も行なわなかったわざを行なったのに、ユダヤ人が信じず、イエスと父を憎んだことを、「彼らはゆえもなく、わたしを憎んだ」と律法に書かれていることばが成就するためだと言います。イエスさまにとっては「ゆえもなく」ということですが、ユダヤ人なりには理由があって、それは「わたしの名のゆえに」(21節)なのです。このことばは、他の3つの福音書の迫害予告の文脈にも出てきます。例えば、

マタイ10:21~22「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のゆえに、あなたがたはすべての人に憎まれます。」

今回、はじめて気づいたのですが、最初の部分は、まずは身内からの迫害があるということなのですね。

イエスさまの名についてですが、イエスさまは一度もご自分の口で「わたしはキリスト」とは言われませんでした。神だったけど神とも、ユダヤ人の王だったけど王とも言われませんでした。後に弟子たちによって、メシア、王、主とかの称号が使われ、福音書や手紙に「イエスキリスト」という名が登場しています(マタイ1:1,ローマ1;1)。当時、それらの称号はローマ皇帝に使われていたものでしたが、弟子たちは信仰と勇気をもって、「イエスはキリストです」と呼び始めました。しかし、ユダヤ人にとっても、統治者であるローマにとっても、それはとても耳障りな呼び名でした。それゆえ、彼らはその名のゆえに、イエスさまを憎みました。

今日の開会聖句は

ヨハネ福音書3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。…さばくためではなく、御子によって救われるためである。」

イエスさまは世に憎まれましたが、世を愛されました。日本では、クリスチャンは、江戸時代以降、何度か厳しい弾圧を受けましたが、今はそれはありません。しかし、教会の人だからと、煙たがられたり、関わりたくないと敬遠されるようなことはあって、居心地悪く思うことが、時々あります。それは、まさに今日のみことばの通りです。しかし、私たちの側にも反省点はあると思います。

<終りに>

先週も話されましたが、私たちの反省点として、上から目線の宣教がありました。それは宣教する側が、経済的に豊かで、生活水準も教育水準も高い国だったからです。彼らは日本だけではありませんが、宣教される国の文化を劣ったものと考えたので、多くの反感を生んでしまいました。今では、神さまはご自身がお造りになり、愛しておられるこの世の様々の文化の中で、すでに働いておられると考えます。私たちに求められることは、神の価値観を大切に生きていくことだと思います。それが、神さまの宣教のわざに参加していくことになります。この世にあって、難しいことですが、その思いをきちんと見てくださっている神さまに対して、私たちは歩んでいきたいと思います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF227KB)

新聖歌

開会祈祷後:135番、メッセージ後:385番

聖書交読

詩編1篇 1~6節

2023年教会行事

5月31日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#55-2870

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