なお、礼拝中のマスク着用は引き続き推奨、「平和の挨拶」の握手の自粛は今後も実施しますので、ご理解とご協力を宜しくお願いいたします。
メッセージ
<民数記 22章15~30節>
牧師:砂山 智
開会聖句
わざわいだ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのように背いて滅びます。
<ユダの手紙 11節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:5/7 PM 9:28
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・我が家には猫が二匹いて、時々、何を考えてるのかなぁ、しゃべったら面白いのになぁ、と思う時があるんですが、今朝の箇所は、猫ではなく、ろばがしゃべるという!?本当に奇妙奇天烈な話です。聖書の中で動物が人間のことばをしゃべるというのは、「創世記」に出て来るエデンの園でアダムとエバをそそのかしたという蛇と、このろばだけです。
1.イスラエルを呪わせるために
最初に「民数記」22章1節をご覧ください。
『イスラエルの子らは旅を続け、ヨルダンのエリコの対岸にあるモアブの草原に宿営した』(民数22:1)。
出エジプトの民はシナイにおける最後の宿営地カデシュを出発し、いよいよ約束の地カナンに入って行きます。この後の36章までは、その直前のモアブの草原における出来事やカナンに侵入後に関係する律法等が記されています。それは40年にも渡る荒野での訓練の最終段階と言えますが、その手始めが、アモリ人との戦いでした。アモリ人というのは、あのノアの息子の一人ハムの子孫ですが、この時代にはヨルダン川東側の山地に住み、その地域で最も有力な部族となっていました。イスラエルはそのアモリ人の王シホンと戦い、見事に勝利します。そして、勢いに乗ったイスラエルは、次にバシャンの王オグにも勝利し、モアブ人の領地モアブの草原に進出してくるのです。そのことを知ったモアブの王バラクは非常に恐れます。それで彼は、遠くユーフラテス川(本文では「あの大河」)の畔のペトルという町にいる占い師バラムを呼び寄せて、敵であるイスラエルを呪わせようとします。その呪いの力でイスラエルを打ち負かすことができると考えたんですね。彼がなぜ、そんな遠い所に住んでいたバラムを呼び寄せようとしたのか?その理由は書かれていませんが、モアブ人というのはアブラハムの甥ロトの子孫で、ペトルはアブラハムの故郷(ウル)とほぼ同じ場所ということですので、バラクには何かのつてがあったのかもしれません。もちろん、バラム自身の占い師としての評判・名声も高かったのでしょう。彼はイスラエル人ではありませんし、「民数記」では預言者とも呼ばれていないのですが、今朝の箇所にもあったように、日常的に神からのことばを聴くことができたみたいです。本当に不思議なというか、謎の人物です。
2.バラムの本心
そして、今朝の後半の話は、さらに不思議な話です。それはもちろん、ろばがしゃべったということもそうなんですけれども、そもそも、今朝の箇所で、神様は20節にあるように、バラムに条件付きとはいえバラクの下に行くことを許しておられます。それなのになぜ、いざ彼が出かけようとすると、主の使いが抜き身の剣を持って道に立ちはだかったのか?『彼が行こうとすると、神の怒りが燃え上がり』とありましたが、なんか理解に苦しみます。ある方は、それはバラムが、その前の12節で、神からモアブの者たちと一緒に行ってはならない、イスラエルをのろってもいけないというみこころを示されていたにもかかわらず、なおもまた、それを尋ねるようなことをしたから、神は怒られたのだと説明しておられました。確かにそうかもしれません。ただ、聖書には他にも似たような話があります。例えば、「創世記」18章で、あの邪悪な町ソドムとゴモラを滅ぼしてしまうと言われた神に対して、アブラハムは執拗に尋ねると言うか、何度も神と取引するようなことをしています。或いは、少し前の礼拝で、「民数記」9章のモーセについてお話しました。当時の律法で過越のいけにえを献げることを禁じられていた人たち。それは死体に触れて汚れているとされたからですが、その人たちから「なぜ私たちは禁じられているのでしょうか」と聞かれた時、モーセは神に尋ねるんですね。その結果、彼らも一月遅れで過越のいけいにえを献げることができるようになったわけですが、どちらも、既に神がみこころ(律法)を示された後で、再度尋ねるというようなことをしています。それなのになぜ、今朝のバラムの場合だけけしからんとされるのでしょうか?ちょっと不思議に思ったんですが、その答えは19節の彼のことばにあるようです。
『ですから、あなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げくださるかどうか、確かめましょう。」』(民数22:19)。
実は、バラムはその前に、バラクの家臣たちに向かって「たとえバラクが銀や金で満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません」と言い切ってるんですね。ですから、本来なら、きっぱりと「お引き取り下さい」と言うべきだったのですが、まぁ、余り良くない表現ですが、つい「スケベ心」が出たんでしょうか。「神はああ言っておられるけれども、あわよくば、もう一度神に掛け合って、一儲けできるかもしれない」という。新約聖書の「Ⅱペテロ」2章15~16節には次のように書かれています。
『彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです』(Ⅱペテ2:15~16)。
最終的に、この語はバラクやバラムの思惑通りにはいきませんでした。バラムは、イスラエルを呪うようにというバラクからの要請に反して、三度もイスラエルを祝福してしまうんですね。もちろん、それは彼の神に対する信仰によるものではなくて、神がそのように行わせたのですが。
<結論>
私は、このバラムに、神と取引しようとしているというか、取引できると考えて行動している人間の姿を見たんですが、先日、読んだ、カトリックの批評家で随筆家の若松英輔さんという方が書かれたNHKテキスト「100分de名著・新約聖書/福音書」という小冊子の中に、「祈り」と「願い」の違い、「神と人とは取引の関係であってはならない」と題する一文がありました。若松さんはイエス様の「宮きよめ」の場面を引用しておられましたが、イエス様の時代にはエルサレムに立派な神殿があって、そこは多くの商人や両替人の取引の場所になっていたんですね。イエス様はそれをご覧になって、細縄でむちを作って羊や牛を宮からみな追い出し、両替人の金をまき散らし、商売の台をひっくり返して言われました。
「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない」(ヨハネ2:16)。
13~14世紀に活躍した中世ドイツのカトリック神父で神学者にマイスター・エックハルトという人がいるんですが、若松さんは彼の説教集から、イエス様がそのようなことをされたのは神殿を空にしておきたかったからだと述べておられました。そして、それは神が、「私はこの神殿に対して権限を持っている。ただひとりこの内にいて、その支配権を手にしていたい」と言っておられるということであり、神がそのようにご自分の御力(愛)をもって思いのままに支配しようとする神殿とは、すなわち私たち人間の魂のことであると述べた上で、次のようなエックハルトの言葉を引用しておられたんです。
「聞きなさい、次のような人々は皆商人である。重い罪を犯さないように身を慎み、善人になろうと願い、神の栄光のために、たとえば断食、不眠、祈り、そのほかどんなことであっても善きわざならなんでもなす人々。このような行為とひきかえに気に入るものを主が与えてくれるであろうとか、その代償に彼らの気に入ることをしてくれるはずだと考えているかぎり、これらの人々はすべて皆商人である。」
もし、私たちの祈りや献金、様々な奉仕が、神への心からの感謝や信仰の応答から献げるものではなくて、何かの見返りを期待して、或いは何かの罰を免れたいと、神と取引するかのような思いで行っているとすれば、それは今日のバラムと同じ過ちを犯していることになります。神は、私たちが優れているからとか、ギブ&テイクのような関係で私たちを愛しておられるのではないのです。ただ、私たちが神のかたちに、ご自身のかたちに造られたがゆえに、愛してくださるのです。神の愛は取引ではないのです。
新聖歌
開会祈祷後:198番、メッセージ後:340番
聖書交読
詩編148篇 1~6節
2023年教会行事
5月10日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時
#55-2867
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