メリバの水事件

    メッセージ

    <民数記 20章1~13節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    こうしてその場所で、主のしもべモーセは主の命によりモアブの地で死んだ。

    <申命記 34章5節>

    メッセージ内容

    Youtube動画

     公開が遅れて申し訳ありません。
    メッセージ動画公開:4/16 PM 9:50


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・今朝の事件は、40年間、荒野を彷徨ったイスラエルの民が、いよいよ約束の地カナンに入らんとする時に起きました。カデシュとは、シナイ半島の北東部、「バイブルアトラス」の地図によるとツィンの荒野とバランの荒野の間にあったオアシスなんですが、先週、「カレブの四十五年」と題してお話しした事件があったのも同じカデシュでした。ただ、この二つの事件の間には、38年の時が流れていました。「申命記」2章14~15節に、モーセの次のようなことばがあります。

    『カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は、三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな宿営のうちから絶えてしまっていた。主が彼らについて誓われたとおりであった。確かに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされたのである』(申命2:14~15)。

    今、お読みした中にあったゼレデ川というのは、恐らく死海の南を流れていた川のことだろうと考えられています。ですので、イスラエルの民の「シナイ放浪40年」というのは、実はその大部分の期間をカデシュ・バルネアの東側で過ごしたことになります。
    今、彼らは、約束の地カナンに入るため、最後の集結地カデシュにもう一度集まり、今か今かとその機会を探っていたのです。そんな時、またもや大きな事件が起きます。

    <本論>
    1.民の反逆

    まず、モーセの姉ミリアムが亡くなります。ミリアムは、モーセが生まれた時、その命を救うため、赤ちゃんモーセをかごに入れナイル川の岸の葦の茂みの中に置き、彼が王女の息子として育てられるきっかけを作りました(出エ2章)。また、出エジプトの際には、兄アロンと共にモーセを助け、途中、モーセに反逆するという間違いも犯しましたが、ずっと彼を支え続けました。今、イスラエルの民は、そのミリアムの死を目の当たりにし、深い悲しみの中で動揺し、自分たちが置かれている現状と将来に対する不安を掻き立てられたのかもしれません。
    過去にも同じようなことがありました。「出エジプト」17章前半です。
    長くなりますので読みませんが、イスラエルの民がレフィディムという所に宿営した時、やはり飲み水がないとモーセに詰め寄ったんですね。その時、神はモーセの祈り(叫び)に応えて、「神の杖を取り、その杖で岩を打て。そうすれば岩から水が出て民はそれを飲む」と言われたので、そのようにしたんです。「出エジプト」17章7節には、やはりその場所がメリバ(「争い」という意味)と名づけられたと書かれています。
    この時のレフィディムというのは、シナイ半島の南、現在はワディ・フィランと呼ばれている所だろうと言われています。そこは「シナイの真珠」と呼ばれ、ナツメヤシが密生するオアシスだそうですが、3500年以上経った今でも、シナイの荒野で大きなオアシスと言えば、このレフィディムと今朝のカデシュの二箇所しかないそうです。

    2.モーセ、杖で二度、岩を打つ

    この二つの事件の違い。さっと読むと見落とすかもしれませんが、細かく見ていくと一つのことに気づかされます。それは、レフィディムの事件では、神は確かにモーセに杖で岩を打てと命じておられます。けれども、今朝のカデシュの事件では、そのようには命じておられないんですね。「杖を取れ」とは言われましたが…。何か紛らわしいですが、モーセは、神から「杖を取れ」と言われて、かつてのレフィディムでのことを思い出し、「ああ、またその時のように、この杖で岩を打てばいいんだな」と思ったのかもしれません。しかし、それは、神のことばを自分勝手に解釈することであり、神のことばよりも過去の自分の成功体験に拠り頼むことでもあったのです。更にモーセは、その杖で、一度ならず二度も岩を打ったとありました。さすがのモーセも少し感情的になっていたのでしょうか。

    『モーセという人は、地上のだれにもまさって柔和であった』(民数12:3)

    はずなんですが、10節後半の彼のことばを読むと、そんな柔和さはどこに消えてしまったのかと思わされます。その結果は、もうお話しする必要はないでしょう。

    3.旧約と新約

    しかし、どうでしょうか皆さん?モーセとアロンのそれまでの苦労を想う時、正直、私なんか「神様、これぐらいのことで、そんな厳しいこと言わなくてもいいじゃないですか」と、つい思ってしまうんです。ただ、次のようにも思いました。それは、この出来事もまた、新約のイエス様につながる大切なことを私たちに示してくれているのかな、ということです。今朝の箇所の次の21章には有名な青銅の蛇の話があります。イスラエルの民がまた神に逆らったため、神は燃える蛇を送られ、その蛇にかまれた多くの民が死んでしまうという。しかし、モーセがとりなしの祈りを献げた時、神は「あなたは燃える蛇を作って旗竿の上に付けよ。その蛇を仰ぎ見れば生きる」と言われたので、彼はその通りに行うのです。イエス様は、「ヨハネ」3章14~15節で、

    『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです』

    と言われました。つまり、この時の青銅の蛇こそ、新約における十字架の予型だということです。イエス様の十字架が救いの現実(原型)であり、青銅の蛇はその雛型・前兆・予兆(タイプ)なのです。今朝の「メリバの水事件」には、そのような直接的な言及はありませんが、あの神の人モーセでさえ、みことば(律法)を完全に守ることはできなかった。それで彼は、約束の地カナンに入ることができなくなってしまった。それは、ある意味、反面教師というか、私たち人間は、旧約の律法を守り行うことによってではなく、ただイエス様を救い主として信じることによって救われる。否、ただ神の恩寵によって救われるのだという、新約の恵みを暗示することではなかったかと思うのです。

    『しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです』(ガラテヤ2:16)。※別訳「イエス・キリストの真実によって」

    <結論>

    今朝の開会聖句はモーセが召される最期の場面です。彼は主の命によって死んだと記されています。また、少し後の7節には、

    『モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった』

    とあります。先週のカレブもすごかったですが、モーセも本当にすごいです。羨ましい限りです。モーセはこの地上で百二十年の生涯を全うし、ただ粛々と、従容として神の命に従い、死んでいきました。今、ピスガの頂に立ち、あの夢にまで見た約束の地カナンをはるかに望みながら、彼の心中はどうだったでしょうか?
    先週は墓前礼拝とT兄の納骨式でしたが、最後に、新約聖書「へブル人への手紙」の一節を読んで、今朝の説教を閉じたいと思います。

    『これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました』(へブル11:13)。

    『しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです』(同11:16)。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF98KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:204番、メッセージ後:421番

    聖書交読

    詩編145篇 1~13節

    2023年教会行事

    4月19日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2864

Comments are closed