メッセージ
<マタイの福音書 28章11~20節>
牧師:砂山 智
開会聖句
見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
<マタイの福音書 28章20節後半>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:4/2 PM 7:01
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・今年は来週が「イースター」ですが、私たちの教会では今日が「イースター礼拝」です。イースター、おめでとうございます!少し前に「陰謀論」というものについてお話ししましたが、今朝のテキストの前半11~15節にある記事は、まさに「陰謀論」と言えるでしょう。これは四つの福音書の中でもマタイだけが記していることですが、15節にある、
『それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている』
という「今日」というのは、もちろん、マタイがこの福音書を書いた時点ということですね。イエス・キリストは本当に復活されたのか?と疑う人は、その頃から、否、それより前のイエス様が復活された直後から、いたのでしょう。そして、それは2000年以上経った今も同じです。
1.イエス様は本当に復活されたのか?
皆さんは、「創造科学」というのをご存じでしょうか?それは、所謂「ダーウィンの進化論」を否定して、この地球・天地万物が、旧約聖書の「創世記」にある記述の通りに、24時間・6日間で創造されたとする立場です(若い地球説)。アメリカのケンタッキー州には、その説に基づいた「創造博物館」というのがあるそうです。クリスチャンの中には、神の業である天地創造を科学的な方法で証明(論証)しよう、また証明(論証)できると考える人もいるようです。あと2年後には大阪の舞洲で55年ぶりの万博が開催されますが、前回の1970年大阪万博のテーマは、50年以上経った今でもよく覚えています。「人類の進歩と調和」。その時から50年以上経ちましたが、私たち人類は果たして進歩したでしょうか?調和していると言えるでしょうか?残念ながら、ノーですよね。ただ、科学が進歩したということについては、皆さんもイエスと言われるでしょう。それでも、今後、科学や考古学がどれだけ進歩したとしても、我々人間の力で、聖書の天地創造説が正しく、進化論が間違っているということを、客観的に証明するということは、やっぱり不可能ではないかと思うのです。旧約の「ヨブ記」に次のようなみことばがあります。
『主は嵐の中からヨブに答えられた』(ヨブ記38:1)。
これは、理解しがたい理不尽とも言える苦難に遭い、もだえ苦しむヨブが、友人たちと長い論争をした後、ずっと沈黙を守っておられた神がようやくヨブに語りかけられる場面です。その後で神は、
『知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ』(同38:2~4)
とヨブに語りかけます。様々な受け止め方があると思いますが、我々人間が知ることのできることは、ほんの僅かなことでしかないということを思わされます。そして、創造説か進化論かということだけでなく、それは復活についても同じです。イエス様の復活が歴史的事実なのかどうか、私たちが客観的に証明することは不可能です。ただ、それはそうなんですけれども、それでも、私たちが、聖書が証言する復活について覚えておかなければならない大切なことがあると思います。それは、復活のキリストと出会ったペテロをはじめとする弟子たちの「復活信仰」というものが否定し得ない事実であったということです。もし、そうじゃなかったら、その後のキリスト教も、教会も存在していなかったでしょう。
2.パウロの証言
今、「復活信仰」と言いましたが、これはキリスト教の教理のことではありません。「復活信仰」とは、イエス・キリストを救い主と信じる者が、生けるキリスト、復活のキリストと出会うという信仰体験のことです。このことについての聖書にある最も古い証言は、「Ⅰコリント」にあるパウロのことばです。
『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました』(Ⅰコリ15:3~8)。
この手紙が書かれたのは、パウロがエペソで伝道していた頃で(使徒19章)、それは、紀元55~56年頃、四つの福音書が成立した時期よりも前だと言われています。パウロは、
『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは』
と前置きをして語っていますが、その最も大切なことというのは、キリストによる罪の贖いと復活であると。つまり、初代教会の宣教の中心的なテーマ、弟子たちが伝えようとしたメッセージの核心は、イエス様の十字架の死と復活であったということです。パウロ自身も、あの「使徒の働き」9章にある、ダマスコ途上で復活のキリストと出会うという体験が回心のきっかでしたが、ここで彼は、自分個人のことだけでなく、ペテロや他の多くの弟子たちにも復活のキリストが現れたことを証言しています。それは、復活が単に人間の頭の中だけの観念的なことではなく、また、ユダヤ当局が流した「陰謀論」のようなものでもなく、確かな歴史的な事実であるということが言いたかったのですね。そして、そのような事実としての復活を、パウロも、ペテロも、その他の多くの弟子たちも、最も大切なこととして、まさに自分の命を懸け、すべてを懸けて伝えたのです。
<結論>
そして、今朝のテキストの後半部分、16節以降は「マタイ」を締めくくるクライマックスとも言える場面ですが、弟子たちは、イエス様が命じられた通りにガリラヤに行き、指示された山に登ります。マタイは、4章14節で旧約の「イザヤ」の預言を引用して、イエス様の宣教がガリラヤから始まったことを強調していますが、そのガリラヤで今、弟子たちが復活の主の栄光に与ることで、マタイは、そのイザヤの預言が完全に成就したことを言おうとしたのでしょう。山(ハル)は、ユダヤの伝統では神と出会う場所です(マタイ17章の変貌の山)。ペテロたちは、その時と同じ山で、今度は復活のキリストの栄光を拝することになるのです。そして、復活されたイエス様は近づいて来て言われました。
『「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」』(マタイ28:18~20)。
この「大宣教命令」は、もちろん、それを直接聞いた弟子たちだけでなく、すべてのクリスチャンに、そしてすべての教会に命じられたことだと受け止めますが、正直、我が身を振り返った時、イエス様はきっと、「ホンマにふがいない、期待外れの奴やなぁ」と言われるだろうなぁ、と思わされます。ただ、イエス様はその後、本当に最後の最後で、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束してくださいました。この「いつも」ということばの直訳は「すべての日々に」ということなんです。寒い日も、暑い日も。悲しみに沈む日も、不安で眠れない夜も、主はすべての日々に、わたしはあなたとともにいるよ、と約束してくださったのです。それは、パウロが書いたように、キリストの力は弱さの内に完全に現れるということではないでしょうか。今日も復活の主は私たちとともにおられます。そして明日も。
新聖歌
開会祈祷後:126番、メッセージ後:129番
聖書交読
詩編143篇 1~12節
2023年教会行事
4月5日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時
#55-2862
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