メッセージ
<マタイの福音書 17章1~13節>
牧師:砂山 智
開会聖句
栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。
<ルカの福音書 9章31節>
メッセージ内容
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メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・今朝は、イエス様の山上での変貌の場面です。
1.モーセとエリヤが現れ
1節に出てくる高い山というのは、ずっと後の28章16節で、弟子たちが復活のキリストを礼拝した山と同じ山だと思われますが、それが何という山なのかは分かっていません。ただ、それはヘルモン山か、或いはタボル山ではないかと言われています。ヘルモン山は、ガリラヤ湖の北東64キロにそびえる標高2800メートルの山で、その山頂には万年雪をいただくような山だそうです。一方のタボル山は、ガリラヤ湖の南西のエズレル平原にそびえる標高590メートルの山で、その山頂には、今朝の出来事を記念する「変貌の教会」というのが建てられているそうです。いずれにしましても、イエス様は、その山の上で、弟子たちの目の前で御姿が変わられた。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなったとありました。「マルコ」にある並行記事では、その衣の白さは、『この世の職人(さらし屋・現代ではクリーニング屋)には、とてもなし得ないほどの白さであった』と表現されています。そして弟子たちは、その光り輝く御姿を見て、非常に驚いたわけですが、それだけでなく、さらに彼らを驚かせ、恐れさせるような事が起こります。それはなんと、あのモーセとエリヤが現れて、イエス様と語り合っていたというのです。モーセは、皆さんもよくご存知かと思いますが、旧約の「出エジプト記」に出てくる、あのモーセですね。旧約の最初の五巻は「モーセ五書」と呼ばれ、律法(トーラー)とも呼ばれて、イスラエル民族にとっては永遠の憲法のようなものです。一方のエリヤも、旧約の「列王記」に出てくる、これまた有名な預言者です。彼が偶像神バアルに仕える預言者たちと対決した時、天から火を呼び下したということはよく知られていますが、私が一番印象に残っているのは、「Ⅱ列王記」2章にある彼の最期の場面です。火の馬車が現れ、竜巻に乗って天に上げられたという(Ⅱ列王2:11)。新聖歌469番(聖歌648番)で歌われています。この聖歌の原曲は黒人霊歌として有名な「Swing low sweet chariot」という曲です。旧約最後の「マラキ」には、
『見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす』(マラキ書 4章5節)
と預言されています。今朝のテキスト後半のイエス様と弟子たちとの短い問答の中で、イエス様は、あのバプテスマのヨハネこそ、「マラキ」で預言されているエリヤの再来だと言われました。
2.光と影
先週のK姉のメッセージは「ヨハネ」13章からで、やはりペテロがイエス様に「あなたのためならいのちも捨てます」と言ったという場面でした。今朝の場面でも、ペテロがまた、しくじります。本当に彼は「しくじり先生」のようですが、彼は、三人のために私がここに幕屋を三つ造ります、と口走るんです。なんて言っていいのか分からなかったのでしょうが、懲りない奴ですね。その時、光り輝く雲が彼らをおおい、雲の中から声が聞こえて来ます。それは、
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」(マタ17:5)
という声でした。3章の最後、イエス様がバプテスマを受けられる場面でも同じ声が聞こえてきましたが、今朝の場面では、最後に、「彼の言うことを聞け」ということばが付け加えられています。神様はまるでペテロに対して言っておられるようです。自分が何をする、何をしてあげるということではなくて、まず、イエス様の御声を聞くことから、私たちの信仰は始まるということですね。あの「ルカ」10章で描かれているマルタとマリアの姉妹もそうでした。イエス様は言われました。
「必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました」(ルカ10:42)
と。
そして、今朝の開会聖句。「マタイ」には、この時、三人が話していた内容までは書かれていないのですが、「ルカ」はその内容まで記してくれています。30節からを読みます。
『そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった』(ルカ9:30~31)。
そうなんです。この時、三人は、イエス様がもうすぐエルサレムで十字架に架けられ、殺されるということについて話していたのです。
今朝のタイトルは「光あるところに」ですが、昔、「光あるところに影がある」という名文句で始まる漫画がありました。昭和40年代にヒットした白戸三平原作の「少年忍者サスケ」という漫画です。今朝の場面で、イエス様が、光り輝く姿に変貌された時に話しておられたのが、あの恐ろしい十字架の出来事であったというのは、本当に「光と影」と言いますか、不思議なコントラストをなしているように思えます。あのゲーテは、「光の多いところには、強い影がある」という格言(台詞)を残していますが、実際、これから後、しばらくして、イエス様はエルサレムで群衆に熱狂的に迎えられます。しかし、その熱狂から「受難週」の出来事が始まるのです。イエス様のご栄光は常に十字架の死と隣り合わせでした。イエス様は、あの十字架の上で息を引き取られる時、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)
と叫ばれた、とマタイは記していますが、その御姿は、この世における勝利者・権力者のようではなく、むしろ惨めな敗北者の姿であり、イエス様はそのような姿を晒すことによって、ご自身の栄光を現されたのです。
<結論>
そして、今朝のメッセージの最後に、今、お読みした開会聖句の
『イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について』
の『最期』ということばに注目したいと思います。このことばは、興味深いことに、原典のギリシア語では「エクソドス」ということばです。これは「脱出」を意味し、旧約聖書では「出エジプト記」を指すことばです。ただ、それ以外にも、このことばに「出発・旅・死・終わり」というような意味があります。我々、日本人には、出発と終わりが同じことばだなんて、何か不思議な感じがしますが、古代ギリシア語ではそうなんですね。先週、K姉は、イエス様の使命は新しいイスラエルを作ることであったと言われました。それは別の言い方をすれば、イエス様は第二のモーセとして、あの十字架の上で第二の出エジプトを完成されたということだと思います。イエス様の最期が、弟子たちの、そして私たちの新しい出発、旅立ちとなったのです。
今年ももうすぐ春が巡って来ます。そしてまた、イースター(復活祭)もやって来ます。イエス様の死と復活は、私たちの新しいいのちの始まりとなりました。死といのちが表裏一体であるように、光と影も表裏一体です。どんな人の人生にも、光があれば、影もあるでしょうけれども、それも神様からいただいた豊かさと受け止めて、今週も歩んで行きたいですね。
新聖歌
開会祈祷後:117番、メッセージ後:207番
聖書交読
詩編139篇 1~18節
2023年教会行事
3月8日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時
#55-2858
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