掟は一つ

    メッセージ

    <民数記 9章1~14節>
    牧師:砂山 智

    開会聖句

    だれも二人の主人に仕えることはできません。

    <マタイの福音書 6章24節前半>

    メッセージ内容

    Youtube動画


    メッセージ動画公開:1/15 PM 3:40


    メッセージ原稿を公開しました。  

    <序論>  
    ・「民数記」からの三回目です。今朝の場面は、

    『エジプトの地を出て二年目の第一の月に』(民数9:1a)

    とあります。ですから、時間的には、1章の「人口調査」の場面から一か月遡ることになります。それは、「出エジプト記」40章17節にあったように、幕屋が設営された日でした。主はモーセに命じて幕屋を設営させたその日に、最初の過越の祭りを行うように命じられたのです。

    <本論>
    1.過越のいけにえ

    そして主は、その過越の祭りでいけにえを献げるようにとお命じになられました。先週もお話ししましたように、過越の由来は出エジプトの際に下された十の災いの最後の災いで、その詳細は「出エジプト記」12章に記されています。主はモーセとアロンに、イスラエルの人々は家ごとに子羊を屠ってその肉を食べ、その血を家の二本の門柱と鴨居に塗るようにと命じられました。主がエジプトのすべての長子を打つとき、子羊の血が塗ってある家はその恐ろしい災いが過ぎ越されるためでした。主は

    『その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる』(出エ12:13a)

    と言われましたが、そのことを深く心に刻みつけ忘れないようにと、毎年、第一の月の十四日の夕暮れに過越のいけにえを献げるようにと命じられたのです。そして、このみことばこそ、遥か後の過越の祭りの日に十字架にかけられ、ご自分の肉を裂き、血を流されたイエス・キリストを指し示す預言と言えます。あのバプテスマのヨハネは、イエス様を見たとき、

    「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29b)

    と言ったと記されています。彼は、イエス様に、かつてイスラエルの民の救いのために屠られた過越の子羊を見、その預言の成就を告げたのです。
    新約聖書の「ローマ人への手紙」でパウロは次のように言っています。

    『私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています』(ローマ6:6~8)。

    私たちの信仰は、私たち自身の努力や、私たちが自分を棄てたり殺したりするところから始まったわけではありません。私たちの滅ぶべき古い人は、もうすでにキリストとともに十字架につけられ、殺されたのです。そして、あのイスラエルの民がエジプトの奴隷から解放されたように、私たちも罪の奴隷から解放されたのです。この後、彼らは荒野で様々な試練に遭い、何度も倒されますが、そのたびに立ち上がります。それは、過越の祭りによって自らの原点、アイデンティティを再確認し、いつもそこに帰って来たと言うか、とどまり続けたからだと思います。私たちもキリストとともに死に、キリストとともに生きる者とされたという原点を忘れないで、歩み続けたいですね。

    2.神にはえこひいきがない

    そして今朝、もう一つ、皆さんとともに覚えたいことがあります。それは、やはりパウロが「ローマ書」で言っているように、

    『神にはえこひいきがない(からです)』(ローマ2:11)

    ということです。今朝の箇所の7節で、事情により過越の祭りへの参加が許されなかった人たちからモーセに質問が投げかけられます。それは律法で、人の死体に触れた者は汚れているとされ、しばらくの間、宿営の外にいなければならず、たまたま、それが過越の祭と重なって、ささげ物を献げることができなくなってしまったのです。そんな彼らの質問に対して、モーセは8節にあるように、私が主に聞くので待つようにと答えます。「律法にそう書いてあるんだから仕方ないじゃないか!」とは言わなかったんですね。そして、その後、主から告げられた答えは、そのような場合には一カ月遅れで過越のいけにえを献げることができるということでした。さらに神は、死体によって汚れた者だけでなく、遠い旅路にある者にも(10節)、その特例を認めてくださいました。さらにさらに、この国に生まれたのではない寄留者であっても(14節・前の訳では「在留異国人」)、いけにえを献げようとするなら、それを許すと言ってくださったのです。それは、神を信じ、自らの信仰で過越のいけにえを献げたいと心から願う者には皆、それができるようにしてくださるということではないでしょうか。コロナの騒動以降、多くの教会で密を避けるために「他部礼拝」や「オンライン礼拝」が行われるようになりました。ただ、それはコロナ対策というだけでなく、様々な事情で日曜日の朝の礼拝に来たくても来れない方々にも、礼拝する機会が備えられるということにつながっていると思います。主は、今朝の箇所の最後で、「掟は一つ」と言われました。それは、掟をそのまま守れない人たちを排除するためのことばではなく、たまたま、今、置かれている状況が違っていて、他の人たちと同じようには掟を守ることができない人であっても、ご自分を愛する思いが同じであるなら、わたしはその人たちを喜んで受け入れるよ、ということだと思うんですね。

    <結論>

    そして、そのような主のみこころに私たちが誠実にお応えするためには、私たちの側も表面的なことではなく、強制されて怯えながらでもなく、心から喜んででなければならないでしょう。今、統一教会の問題で、「宗教二世」ということばが注目を集めています。私たちも決して無関心ではいられません。親が自分の子どもに、信仰を強制、或いは半強制のような形で押し付けることはできません。もし、それが信仰の継承のためにはやむを得ないことだとか、その子の救いの為にはやむを得ないことだと考えているとするなら、そのような考え方は改めなければならないと思います。そして、子どもはもちろん、世の人々は、この私の信仰の姿勢を見ているということを忘れてはならないと思います。今朝の開会聖句はイエス様のことばですが、本当に掛け値なしに本気でこのことばに向き合うなら、なんと厳しいことばか、といつも思わされます。

    「だれも二人の主人に仕えることはできません。(中略)あなたがたは神と富とに仕えることはできません」(マタイ6:24)

    「あなたがたには掟は一つである」と言われた主に、どのようにお応えするのか。今週も自分自身に問いかけながら歩んで行きたいと思います。

    メッセージ内容のダウンロード(PDF93KB)

    新聖歌

    開会祈祷後:22番、メッセージ後:384番

    聖書交読

    詩編132篇 1~10節

    2023年教会行事

    1月18日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時

    #55-2851

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