メッセージ
<民数記 4章1~6節>
牧師:砂山 智
開会聖句
彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。
<民数記 4章49節前半>
メッセージ内容
Youtube動画
公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:1/8 PM 6:00
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「民数記」3、4 章には、レビ人の人数とその職務が書かれています。少し遡って 1 章 47 節には次のように書かれていました。
『しかしレビ人は、彼らとともに父祖の部族ごとに登録されることはなかった』(民数 1:47)。
1 章は、先週、お話ししたように、「人口調査」の記事ですが、レビ人だけは十二部族として登録されることはなかった。別の言い方をすると、「人口調査」の対象外とされたのです。それは、かつてイスラエルの民が金の子牛を作って拝むという罪を犯した時、レビ人だけがモーセの呼びかけに応じて彼に従った、つまり、その金の子牛を拝まなかったゆえに、 神から特別な祝福を受けたからだとされています(出エ 32:25~29)。
1.レビ人の立場
ですから、先程の続きの 1 章 48~53 節で主はモーセに次のように告げられました。
『主はモーセに告げられた。「レビ部族だけは、ほかのイスラエルの子らとともに登録してはならない。また、その頭数を調べてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋と そのすべての用具、およびすべてそれに付属するものを管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これに仕え、幕屋の周りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取り外し、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。 資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。イスラエルの子らは、軍団ごとに、 それぞれ自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の周りに宿 営しなければならない。わたしの怒りがイスラエルの会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋に関わる任務に当たる。」』(民数 1:48~53)。
また、主は次のようにも言われました。
『主はモーセに告げられた。「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開 いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人 はわたしのものとなる。長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」』 (同3:11~13)。
このことばは出エジプトの際に下された十の災いの最後の災い、「過越しの祭り」の由来となった出来事を思い起こさせます。レビ人というのはそれほどイスラエルの中でも特別 な立場に置かれていたのです。
2.真っ青の布
さて、そのレビ人には三つの氏族がありました。
3章17節に、
『レビ族の名は次のとおり である。ゲルション、ケハテ、メラリ』
とある通りです。レビ人の中でも、特に祭司の職は モーセの兄アロンの直系が務めましたが、アロンの四人の息子の内、長男のナダブと次男の アビフは、3章4節でも言及されているように、主の裁きによって既に亡くなっています。 ですから、三男のエルアザルと四男のイタマルが父アロンとともに祭司の務めを果たした わけですが、その内、今朝の箇所で言及されているケハテ族は、三男エルアザルの配下に置 かれたレビ人でした。このケハテ族に、最も聖なるものとされた聖所の中の器具を運ぶ役割 が委ねられたわけですが、その際には厳格な掟がありました。それは、5、6節で言われて いるように、先にアロンとその子ら、つまり祭司が聖所に入ってそれらの器具をおおうとい うことでした。その理由は少し後の 4章15節に述べられています。
『宿営が移動する際には、アロンとその子らが聖所と聖所のすべての用具をおおい終わっ てから、その後でケハテ族が入って行って、これらを運ばなければならない。彼らが聖なる ものに触れて死ぬことのないようにするためである』(民数 4:15a)。
ただ、今朝の箇所を読んでいて、小さな違いが気になりました。それは 6節にあった『真っ青の布』ということばです。この後の箇所では「青色の布」ということばが何度か出てきます。真っ青と青色というのは何か違うのでしょうか?実は、この真っ青と訳されている ヘブル語は、青色を意味する「テへーレット」に「ケリーヌ」という「完全な、完璧な」と いう意味の形容詞が組み合わされたことばなんです。ですから、やはり普通の青色とは少し違った色だったみたいです。また、この後、出てくる器具にも、それぞれ異なった色の布が 使われています。例えば、8節の『緋色の撚り糸の布』とか 13 節の『紫色の布』とか。引っ越しの時の荷物でしたら、それぞれに名前を書いておけば済む話ですが、これらの聖なる 器具の場合にはそうもいかなかったと思いますので、恐らく、それが何であるのかというこ とが分かるように、色で区別したのではないでしょうか。「予型論」に立つ解釈では、これ らの色にも様々な意味があるとされます。特に、13節の、祭壇の上に広げるという紫色の布は、イエス様が十字架に架けられた時に着させられたという紫色の衣(マタイでは緋色の マント)の予型であると解釈されています。それは、祭壇が生贄の動物を献げるための場所 だからですね。新約の恵みの時代に生きる私たちは、神の子羊イエス様の尊い犠牲によって 覆いが取り払われ、大胆に恵みの御座に近づくことができるようになったのです。
<結論>
そして、最後にもう一つ。今朝の箇所で主は、レビ人がこれらの奉仕をすることのできる 年齢についてはっきりと言及しておられます。それは 3節にありましたように
『三十歳以上五十歳まで』
なんです。先週お話しした「人口調査」の際には、
『二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて』(民数 1:3)
とありましたので、それに比べると範囲が狭いという か、厳しいですよね。一番、脂が乗り切った働き盛りの世代にということでしょうか。先日、 テレビで、日本の江戸時代の平均寿命が四十歳程度だったと言ってるのを聞いて、少し驚い たのですが、この時代のイスラエルの平均寿命がどのくらいだったのかは分かりませんが、 私なんかもうとっくにその範囲を超えています。と言うか、私が牧師になったのは四十八歳 の時でしたので、もう最初から手遅れだったとも言えますが…。ただ、五十歳を過ぎたら、もう何もすることがない、後は死ぬのを待つだけかというと、神様はそうは言われなか ったんです。
『主はモーセにこう告げられた。「これはレビ人に関わることである。二十五歳以上の者 は、会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。しかし、五十歳からは奉仕の務め から退き、もう奉仕してはならない。その人はただ、会見の天幕で、自分の同族の者が任務 に当たるのを助けることはできるが、自分で奉仕をしてはならない。あなたはレビ人に、彼 らの任務に関してこのようにしなければならない。」』(民数8:23~26)。
今、読んだところに二十五歳以上とありましたが、それは、三十歳から正式にレビ人とし て奉仕を献げるための準備期間(見習い期間)が五年あったということではないかと思われ ます。そして、確かに、五十歳を過ぎれば奉仕の務めから退かなければならなかったのです が、同族の若い人たちを助けることはできたんですね。私は、この箇所を読んで、何か嬉しくなりました。それは牧師だけに限りませんが、年を取って、以前のように第一線で働けなくなったとしても、まだまだ委ねられているご奉仕はあるんだよ、と神様は言っておられるように感じたんです。祈りましょう。
新聖歌
開会祈祷後:18番、メッセージ後:395番
聖書交読
詩編131篇 1~3節
2023年教会行事
1月11日(水) オリーブいきいき百歳体操 10時〜11時
#55-2850
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