メッセージ
<ダニエル書 5章25~31節>
牧師:砂山 智
開会聖句
どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。
<詩編 90篇12節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:11/13 PM 3:14
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「ダニエル書」からの二回目です。今年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で「オンベレブンビンバ」という題がつけられた回がありました。「なんじゃそら?」と思ったんですが、それは、初代執権となった北条時政が、昔、孫娘の大姫から教えてもらったという、いいことがあるというおまじない「オンタラクーソワカー」のことでした。16年も前のことで、記憶があいまいになって「オンベレブンビンバ」というわけのわからんことばになってしまったわけですが、久しぶりの家族団らんの席で皆が何とか思い出そうと盛り上がる様子がコミカルに描かれていて、まるで昔の伊豆にいた頃の北条家に一瞬だけ戻ったようで、二度と戻れないあの頃の幸せな時間を思い起こさせる、おかしさの中になんとも言えない哀しさも感じさせる名場面でした。今朝の「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」からそんなことを思い出したんですが、これはもちろん、おまじないの呪文のことばではありません。「ダニエル書」は2章4節から7章の最後までヘブル語ではなくアラム語で書かれているという、旧約の中でも不思議な書簡なんですが、「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」というのもアラム語なんです。アラム語というのは、元はメソポタミア北部とシリア(アラム)地方のことばでしたが、アッシリアの時代からは一種の国際語になりました。イエス様も日常的にはアラム語を話されたのではないかという有力な説もあるようです(十字架上でのことば)。
1.ベルシャツァル
さて、今朝の主人公ベルシャツァルですが、先週の説教で、彼はネブカドネツァルの息子で次の王だとご説明しました。しかし、それは間違いでした。バビロンの歴史を改めて調べると、紀元前562年にブカドネツァルは死ぬのですが、その後、即位したのはエビル・メロダクという王でした。ただ、彼は僅か2年で義弟のネリグリッサロスに暗殺されてしまうんです。そして、それから5年後の紀元前555年にネブカドネツァルの二番目の妻の息子ナポニドスが王位に就きます。ただ、彼もハランの月神シンを熱心に崇拝したために家来たちの怒りを買い、息子のベルシャツァルに王位を譲らざるを得なくなってしまうんです。鎌倉幕府ではありませんが、バビロンの政権内でも権力闘争が絶えなかったみたいで、実に目まぐるしく王位が代わっています。ですから、ベルシャツァルはネブカドネツァルの息子ではなく孫ということになるんですね。このベルシャツァルが、今朝の5章、そして7章、8章に登場する人物です。もうお気づきかもしれませんが、「ダニエル書」も、以前お話しした「エレミヤ書」のように、時代順には書かれていません。今朝の5章は、時代的には、7章、8章の後の話になると思います。なぜなら、今朝の話の最後はベルシャツァルの死で終わっていますので。
2.人間の手の指
5章1節をご覧ください。
『べルシャツァル王は、千人の貴族たちのために大宴会を催し、その千人の前でぶどう酒を飲んでいた。べルシャツァルは、酒の勢いに任せて、父ネブカドネツァルがエルサレムの宮から持ち出した金や銀の器を持って来るように命じた。王とその貴族たち、および王の側室たちや侍女たちがその器で飲むためであった。そこで、エルサレムの神の宮の本殿から持ち出した金の器が運ばれて来たので、王とその貴族たち、および王の側室たちや侍女たちはその器で飲んだ。彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を讃美した。ちょうどそのとき、人間の手の指が現れ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側のところに何かを書き始めた。王は、何かを書くその手の先を見ていた。すると、王の顔色は変わり、いろいろと思い巡らして動揺し、腰の関節はゆるみ、膝はがたがた震えた』(ダニ5:1~6)。
さっき、その文字「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」はアラム語と言いましたが、この時、現れた指が宮殿の塗り壁に実際に書いた文字は、人間が使っていた言語ではなかったのかもしれません。新約聖書に「異言(グロソラリア=舌から発せられることば)」という賜物が書かれています。それは単に外国語という場合もあれば、全く意味不明なことばという場合もあるようです。この異言については、ペンテコステ派(カリスマ派)と私たちのようなグループとでは解釈が異なりますが、「Ⅰコリント」などを見ると、やはり、その意味を解き明かす者がいなければ、一般的には理解できないもののようです。今、お読みした場面でベルシャツァル王が見た文字も、恐らくそのようなものだったのではないでしょうか。王は、バビロンの知者たちにその文字の解き明かしを命じますが、誰一人として、それを解き明かすことができる者はいませんでした(ダニ5:8)。
3.召し出されたダニエル
その時、王母が助け舟を出します。この王母はニトリクスという名前でネブカドネツァルの娘であったみたいですが、ベルシャツァルの父ナポニドスもネブカドネツァルの息子の一人でしたので、恐らく、この両親は腹違いの兄弟であったと思われます。その王母がダニエルのことを王に教えるのです。先週は2章からお話ししましたが、
あの時代から既に60年以上が経っており、ダニエルのことを知っている人も少なくなっていたのでしょう。また、12節を見ると、王母は、
『今、ダニエルを召して、その解き明かしをさせましょう。』』(ダニ5:12b)
と言っていますので、ダニエルは、この頃にはもう知者たちをつかさどる長官の職から外されていたと思われます。
王は、召し出されたダニエルに、「今、もしおまえが、その文字を読み、その意味を私に告げることができたなら、おまえに紫の衣を着せて首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう」と告げます。しかし、ダニエルは王からの申し出を慇懃に断り、昔、祖父のネブカドネツァルに下された神の裁きについて話した後、次のように言うのです。今朝、読んでもらった箇所の少し前、22節からご覧ください。
『その子であるベルシャツァル王よ。あなたはこれらのことをすべて知っていながら、心を低くしませんでした。それどころか、天の主に向かって高ぶり、その宮の器を自分の前に持って来させ、あなたと貴族たちとあなたの側室や侍女たちは、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。しかしあなたの息をその手に握り、あなたのすべての道をご自分のものとされる神を、あなたはほめたたえませんでした。そのため、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです』(ダニ5:22~24)。
<結論>
その文字の意味については今朝の箇所にありましたので、繰り返しは述べませんが、私は、この場面を読んで、「詩篇」90篇、今朝の開会聖句を思い出しました。
『どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください』(詩90:12)。
詩人は、自分の日を数えることを教えてくださいと祈っていますが、医学が進んだ現代においても、自分に残された生涯を正しく数えるということは人間には不可能です。ですから、それを数えるということは、神がすべてを支配しておられることを想い、謙遜と罪の悔い改めのうちに、神に信頼して生きる毎日の積み重ねに他ならないのではないか、と思うのです。
そして最後に、新約聖書の「ルカの福音書」12章にあるイエス様のたとえ話があります。ある金持ちの畑が豊作で、たくさん採れた作物を自分の倉にしまって、「さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と喜んでいたけれども、神は彼に、「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われたという。人生は自分の思い通りに動くものではありませんし、私たちには先のことは何も分かりませんが、これから皆さんとともにお献げする新聖歌340番の歌詞にあるように、「物事 全てを 良きになし給う」神だけを信頼して、歩んで行きたいですね。
新聖歌
開会祈祷後:143番、メッセージ後:340番
聖書交読
詩編124篇 1~8節
2022年教会行事
11月16日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
#54-2842
Comments are closed