私たちの召しと教会

メッセージ

<エペソ人への手紙 1章 3~14節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

<エペソ人への手紙 1章23節>

メッセージ内容

Youtube動画

 

動画公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:9/11 PM 8:43 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。  
<序論>  
・「エペソ人への手紙」は「ピリピ人への手紙」「コロサイ人への手紙」「ピレモンへの手紙」とともに獄中書簡と呼ばれています。それは、パウロがローマの獄中にいる時に書かれた手紙だからです。ですから、パウロは必然的に外部と遮断され、一人で瞑想すると言うか、様々なことについて思いを巡らす機会が多かったと思われます。そのためか、この手紙では、具体的な問題について論じるというよりも、永遠にわたる神の救いの計画、それは「召し」と言い換えてもいいと思いますが、神の召しに対する深い洞察が示されます。また、個々の教会についてではなくて、目に見えない霊的なキリストの体である普遍的な教会についても、同じように深い霊的なみことばが語られます。

<本論>
1、天上にあるすべての霊的祝福

今朝のテキストの最初の部分を読むと、私はいつもある方のことばと言うか、説教を思い出すんです。それは確か教団の有志早天祈祷会でのことだったと記憶しているんですが、ある先輩牧師が次のように話されたんです。
「私はこのみことばを改めて読んでみて、本当にものすごいことが書かれてあると思わされました。それは、『神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました』とあったからです。私も、もちろん、神様は私を祝福してくださった、祝福してくださっている、とは思っていましたが、ここに書かれているようなレベルのことまでは、とても思いが至りませんでした。」
私は、その方の話を聞きながら、自分も同じだなぁと。否、自分は、そこまで思いが至らなかったというよりも、だいたい自分が神に祈り求めることといえば、あれをしてください、これをお願いしますと、この世的なご利益、祝福みたいなことだけじゃなかったかと。今、パウロは、ローマの獄中にあって、一切のこの世的な望みや計らいから離れてというか、離れざるを得ない状況に置かれて、このような信仰を告白するに至ったのです。それは、彼が「ローマ人への手紙」5章で、

『苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです』(ローマ5:3b~4)

と書いた通りではないでしょうか。

2.世界の基が据えられる前から

そして、その後で、パウロが述べているのが、イエス・キリストにある召しというか、永遠にわたる神の救いのご計画、恵みなんですね。4~5節。

『すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました』(エペソ1:4~5)。

少し前のメッセージで、私たちメノナイトは「フリー・チャーチ(自由教会)」と呼ばれ、それは国家や政治からの自由という意味だとお話ししましたが、再洗礼派というのは、だいたいラディカル(急進派・過激派)と呼ばれていました。それは、それまでは、キリスト教国に生まれたら、王様がプロテスタントだったら国民もプロテスタント、王様がカトリックだったら国民もカトリックと、生まれたら即、問答無用で洗礼を授けられ、それが当たり前の世界だったわけですね。しかし、それはおかしいと。自分の意志でイエス様を信じて、信仰を告白して洗礼を受け直さなければならないと私たちの先祖は主張したわけです。ですから、私たちメノナイトは、考えてみればおかしな呼び名なんですが、「ビリーバーズ・チャーチ(信じる者たちの教会)」とも呼ばれています。ただ、その一方で、自分たちの意志、人間の信仰というものが余りにも強調されすぎると、おかしなことになってしまう場合もあります。それは例えば、神様が祈りを聞いてくださらないのは私たちの側の信仰が足らないからだとか、今、問題になっている統一教会では、あなたの献金が足らないからだと教えている(脅している?)そうですが、そういう、人間の側の信仰の力によってみたいな信仰になってしまうのです。しかし、聖書が言っていることはそうではないですよね。何しろ、この世界の基が据えられる前から、神はキリストにあって私たちを選び(召し)、愛してくださり、聖なる傷のないご自分の子にしようとされたのですから。ですから、ある意味、私たちの信仰の歩みとは、そのことを、どんな時でも堅く信じ続けてゆけるかどうか。私たちの人生には「まさか」というようなことが起こって来るわけですが、そんな時、つい神の召しや愛というものを疑ってしまう。そして、先程、お話ししたような思いに陥ってしまったり、偽りの教えに騙されてしまうのです。ですから、私たちのこの地上での歩みは、そんな思いとの戦いではないかと思うのです。その意味で、あの「Ⅰコリント」に書かれてあるパウロのことばは真実だと言えます。

『こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です』(Ⅰコリ13:13)。

これは、私たちの信仰も希望も、結局は、愛、神の愛がなければ、存在しえない。パウロが、一番すぐれているのは愛と言ったのは、神の愛こそが私たちの信仰と希望の始まりであり、原点だということではないでしょうか。

3. キリストにあって一つに

そして、7~10節。

『このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです』(エペソ1:7~10)。

残念ながら、未だにこの計画は実行に移されていません。私たちが生きるこの世界は、とてもキリストにあって一つとは言えません。ウクライナでの戦争はもちろん、世界中の国々で様々な分断と対立は続いています。ここでパウロは『(みこころの)奥義』(ギリシア語では「ミステーリオン」)ということばを使っていますが、それは、キリストがこの世界に来られたことによって初めて明らかにされ、それまで私たち人間には知りえなかった神のご計画を意味しています。その奥義が、キリストにあって一つに集められるということです。ある方は、それは、あの「ヨハネの黙示録」に出て来る「千年王国」において実現するのだと言います。ただ、その先取りというか、雛型は既に存在しています。それが(普遍的な)教会です。私たち千里教会は、「村の小さき教会」という讃美のように、本当に小さな群れかもしれませんが、そんな小さな私たちも、天にあるもの、地にあるもの、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることの前触れとして存在しているのです。

<結論>

「日々のみことば」今月号の表紙の写真は、あのエルサレム神殿にある「嘆きの壁」でしたが、関野祐二先生は、COVER STORYで、N.T.ライト著「クリスチャンであるとは」「シンプリ―・ジーザス」という本を参考に、次のように書いておられました。

「神殿は、旧新約聖書を読み解く際に欠かせない「天と地が出会う場所」です。神殿が天と地の出会う場所と理解される際、「天」は神の領域、「地」は人間の領域を指しますが、問題はこの二領域の関わり方です。神の領域と人の領域は同じもので境界線はないと理解するのが汎神論。二領域は全く分離していて神は人の領域に関わりを持たず、地は自然法則によって自動機械のように動くと考えるのが理神論です。そして第三の類型が、古典的ユダヤ教とキリスト教に現れる、天と地は重なり合い、組み合わされているとの理解です。(中略)天と地が出会う場所という旧約聖書の神殿は、新約聖書においてはナザレのイエスが代わってその役割を担うようになります。イエスがおられる場所、イエスが語り、みわざを行う場こそが天と地の重なり合う所であり、イエスは神の領域が人の領域に浸透している「歩く神殿」です(ヨハネ2:19~22)。イエスにおいて神の約束は成就しました(ルカ4:18~19)。」
「日々のみことば2022.9 Vol380」COVER STORY(関野祐二:聖契神学校校長著)

最後に、関野先生も引用しておられましたが、「ヨハネの黙示録」にある、やがて現れる新天新地の都の様子を描いたみことばを読んで、今朝のメッセージを閉じたいと思います。

『私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである』(黙示21:22)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF108KB)

新聖歌

開会祈祷後:249番、メッセージ後:146番

聖書交読

詩編115篇 1~18節

2022年教会行事

9月14日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2833

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