2人で一つ

メッセージ

<ヨハネの福音書 11章17~37節 >
信徒:K

開会聖句

それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

<ピリピ人への手紙 2章4節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。 
 

<はじめに>  
・先週に続き、ラザロのよみがえりの場面です。今日の注目は、マルタ、マリヤの2人の姉妹。私は弟がおりますが、常々弟はいいなあと思って育ちました。怒られるも、我慢させられるのもいつも私ですし、親は弟には甘いように思いました。しかし、大人になって年月が経ってから、そうでもなかったことに気づかされました。すでに、一つのモデルがその家庭で出来上がっているのは、助かる面があっても、うっとうしいこともあったようです。私たちの性格は持って生まれた気質もありますが、そういう育った環境も左右して、つくられていくのだろうと思います。マルタ、マリヤの姉妹もずいぶん性格が違います。極めて対照的に見えます。今回は、イエスさまのその 2 人への関わり方に注目します。姉妹への違った関わりよって、私たちはイエスさまをより知ることができたからです。今日の主題は「2人の違いがもたらすもの」

<本論>
Ⅰ.イエスはマルタに完全な神性をもつメシアであることを伝えられた

イエスさまがベタニヤに到着されたのは、ラザロが墓に入れられて4日目でした。家には彼女たちを慰める客がたくさん来ていました。イエスさまは村には入らず、マルタの出迎えを待っていました。ここで、この姉妹について別の記事を見てみましょう。この姉妹は福音書の中で、割と有名なんです。それはたぶん、姉マルタにとって少し不名誉な記事の影響だと思います。
ルカ10:38~42(p136)

「さて、一行が進んでいくうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。ところが、マルタは色々なもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、なんともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。』
主は答えられた。『マルタ、マルタ、あなたは色々なことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良い方を選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。』」

妹が忙しいのに全然手伝わないという不満を、姉はイエスさまにぶつけたのです。マルタは同情してもらおうと思ったようですが、さにあらず。「あなたは色々気遣いしすぎだ。必要なことは1つだけです。マリヤは良い方を選びました。」と反対に諭されてしまいます。妹のマリヤは、テキパキと働く姉とは正反対で、おっとりしたタイプのようです。今日もイエスさま到着の知らせを聞いて、出迎えに行ったのはやはり姉のマルタでした。

イエスさまとの会話はマルタから始まりました。

21節「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

少し責めたようにも聞こえますが、弟ラザロのことは残念でしたけれども、遅れたにせよ、来て下さったことを喜んでいるように思います。マルタは続けます。

「しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」

弟のことは致し方なかったこととしても、私は今もあなたを尊敬し、信頼しておりますよという感じですね。とてもしっかりした、取り乱したところのない、分別のあることばだと思います。だからこそ、こんな女性だったからこそ、イエスさまはお悔やみや慰め以上のことを彼女にズバッと語られます。

23~24節「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』マルタはイエスに言った。『終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。』」

これは当時のユダヤ人の一般常識です。サドカイ人を別として、パリサイ人や律法学者、一般のユダヤ人は終わりの日の復活を信じていました。ですから、マルタも終わりの日にラザロがよみがえることを信じていると答えたのです。しかし、イエスさまが伝えたいのは、終わりの日でなく、今ここでラザロがよみがえることです。そのために、イエスさまはご自分が何者であるかを彼女に明かされます。

25節「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも、生きるのです。また生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたはそのことを信じますか。」

これは、イエスさまはいのちそのものーヨハネは序論 1:4 で「この方にいのちがあった。」とイエスを紹介している―神性をもつメシアであるということです。 そして、

27節「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」

とマルタは答えました。 ただこのとき、マルタはそのことばの意味することを理解できていたわけではありません。しかし、イエスさまは、ご自分が神性をもつメシアであることをマルタに明らかにされました。彼女はその大切な真理を受けとめる信仰をもっていると考えられたからです。話し終えたイエスさまはマルタにマリヤを呼ぶように頼みます。

Ⅱ.イエスはマリヤに完全な人性を持つものとして対応された

マリヤはマルタに言われてすぐにイエスさまのところに行きます。マリヤがイエスさまに会うなり言ったことばは、マルタがイエスさまに言ったことと一字一句違いません。しかし、彼女の様子は姉とは全く違いました。彼女はイエスさまを見ると、崩れるように足下にひれ伏し、

32節「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

と言ったのです。彼女の悲しみは一気にあふれだし、その後のマリヤは泣いてばかりです。これがマリヤです。イエスさまはそんなマリヤに寄り添われます。そればかりかイエスさままで、その深い悲しみに引き込まれ、35 節「イエスは涙を流された。」です。福音書の中で、イエスさまが泣かれたのは、滅びが迫るエルサレムをご覧になったときとここだけです。死は愛する人たちを引き裂きます。イエスさまは神ですから、人が罪のゆえに、死ぬことをよくご存知です。それに、数分後にはラザロをよみがえらせるのです。だからといって、目の前のマリヤの悲しみを軽くみることはなさいませんでした。「泣く者といっしょに泣きなさい。」死のもたらす別離の悲しみを、人間として味わわれたのです。マルタと真理についての話をされたときとは別人のように、涙を流してマリヤと泣いておられます。イエスさまは私たちと同じ感情を持つ完全な人間であることの証です。この性格の違った 2人への対応は、2人の性格にふさわしい関わり方であっただけでなく、イエスさまがどのような方かを完全に示すものでした。マルタには、自分の100%の神性を、マリヤには100%の人性を示されました。もし、彼女たちに後日イエスさまはどんな方かをインタビューしたら、2つの答えが返ってきたのではないでしょうか。「いのちを持っておられる神です。」「共に泣いて下さる人です。」という風に。

Ⅰコリント12章、北部地区の巡回説教でも語られている箇所ですが、17~18にこうあります。

「もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。」

それぞれの部分という違った存在は不一致や混乱の原因になりますが、神さまはそれを備えて下さったとあります。そもそも、人間は違ったもの(一つの違いは性)に造られたのですが、罪が入ったあと、彼らは罪のなすりつけあいをしました。罪が支配するならばそうです。しかし、神の支配では、それは神の智惠、配慮という恵みだと思います。1人がどれほど優秀であっても、1人の人間には限界があります。1人の人間の視点には限界があります。1人では知り得ないことも2人なら知ることができます。

ユダヤ教からキリスト教への過渡期、ユダヤ人クリスチャンは、救いの条件(神の民になる)に律法も付け加えたがりました。それが当然だったからです。しかし、もめにもめた末、律法は付け加えない、主イエスの恵み、福音のみに一本化されました。ギリシャ人という異邦人の存在が加わったことで、福音が本当の福音になりました。 その頃の地の果てはスペインでしたが、今や福音はヨーロッパ、北米から、アジア、アフリカ、南米に拡がりました。 今まで、欧米のパウロの十字架のメッセージが主流でしたが、最近は福音書に描かれている貧しい者や小さい者の側におられるイエスさまの生き方も注目されるようになりました。これは植民地政策のもとで、抑圧された人たちだった第3世界のクリスチャンが共感する視点です。人間は自分の考えの中に神を押し込めて、神さまを小さくしてしまう過ちを犯しやすいのです。しかし、神さまは私たちの想像の及ばない方です。それに気づくために、私たちの側に、違ったもの、違った視点をもつ存在を与えておられるのではないでしょうか。

<終りに>

違いは恵みです。違いによって新しい気づきに出会います。このことは、教会だけでなく、私たちの日常においても同じです。私たちが違った者につくられたことを恵みとして受け取るために、大切なこと、視点を知っておきましょう。

開会聖句ピリピ人への手紙2:4「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」

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新聖歌

開会祈祷後:137番、メッセージ後:317番

聖書交読

詩編114篇 1~8節

2022年教会行事

9月7日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2832

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