駆けつけなかったイエス

メッセージ

<ヨハネの福音書 11章1~16節 >
信徒:K

開会聖句

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」

<ヨハネの福音書 15章7節>

メッセージ内容

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 メッセージ原稿を公開しました。 
 

<はじめに>  
・小学生のお母さんの新聞の投稿―娘のクラスで、温かことばを新聞などから探す宿題が出た。「ありがとう」とか「うれしかったよ」という感じのことばだろうと思っていたが、娘が見つけたのは、「今だけ、半額」だった。―なるほど、その気持ちよくわかります。値上がりが続くこの頃、確かに「今だけ、半額」はお財布にも心にも温かいです。 私たちが人とのコミュニケーションを求める理由の1つは、私たちの心が温かいことばを必要としているからでしょう。ほんの短いことばでも、温かことばを聞くと、うれしくて元気が出ますが、とげのある冷たいことばを聞くと、心はカサカサ悲しくなります。今日登場するのは、イエスさまと親しい交流のあった家族です。家族の1人が病気になり、いやしを求めてイエスさまに使いを出すのですが、イエスさまは、家族が望むような温かことばも、温かいそぶりも見せてくださいません。素っ気なかった。まさかの塩対応でした。今日はその訳を考えたいと思います。主題は「イエスさまの塩対応の訳」

<本論>
Ⅰ.イエスの塩対応は、ラザロの死を誰の目にも明らかにする。

11章は「ラザロの復活」と言われる箇所で、今日はその最初です。今までのユダヤ人指導者たちとの争いの場面から、病気になったラザロとその姉妹の話に変わります。彼はベタニヤという村の人で、姉がマルタ、妹がマリヤ。マリヤは12章でイエスさまの足に香油を塗ったあのマリヤだと説明されています。 ベタニヤはエルサレムの近く、少し手前にある村で、その頃イエスさまは、石打ちにされそうになった危険なエルサレムを離れ、ヨルダン川の方まで退き、そこに集まってくる人々の必要のために忙しくしておられました。そこに姉妹たちから3節「主よ、ご覧下さい。あなたが愛しておられる者が病気です。」の知らせが届きます。よくよくの状態になったのでしょう。もし、イエスが殺されそうになったことを知っていたとすれば、なおさらよほどの状態。それを聞いたイエスさまの返事は、4節「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって、神の子が栄光を受けることになります。」 その後の5節には「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と一言説明が加えられています。ところが、ラザロのもとに急いで駆けつけようとはなさらなかったし、その時点では理解しかねる4節以上の何のことばもなかったのです。イエスさまのまさかの塩対応です。

一方、弟子たちはホッとしたと思います。2日経ち、イエスさまがラザロのところに行くと言い出したときには、「エルサレム方面は危ない。」と止めに入りましたから。イエスさまは「昼間に歩けば大丈夫」と答えられ、もう一つ驚くことを弟子に明かされました。ラザロは病気で眠っているのではなく、死んだことです。ここで弟子たちは、初めてあの使いの重大さを知ったのですが、イエスさまは、平然と15節「あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場にいなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところに行きましょう。」と言われました。 ラザロ病気の知らせは、イエスさまに1つのことを思い出させました。5:20~21「また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えるように、子もまた、与えたいと思うものにいのちを与えます。」(p186) ラザロの死は、「子が与えたいと思うものにいのちを与える」機会でした。

実は、死人がよみがえるという話は、私たちが思うほど珍しいわざとして扱われてないようなのです。なぜなら、イエスさまはバプテスマのヨハネの疑問に対して、わざで判断するように言いました。ルカ7:22(p124)「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り…。」どれも並列で、よみがえりを特別視していません。ルカの福音書ではこの前後に2つよみがえりを記しています。ナインのやもめの息子(ルカ7:11)と、会堂司ヤイロの12才の娘(ルカ8:41)。よみがえりの例は私が調べた範囲では5つでした。ルカの2つと旧約のエリヤとエリシャが世話になった女性の息子の2つ(Ⅰ列王17章、Ⅱ列王4章)、夜遅くまで続いたパウロの話の最中に眠ってしまい3階の窓から転落した青年(使徒20章)の5つです。 しかし、イエスさまがラザロに対して行うわざは、それらとはスケールが違います。ラザロは墓に葬られてしまいました。それは死後の時間が経過したからです。他の例では、よみがえりのわざは死の直後~棺までに。墓に三日間も入ったことで、ラザロの死は、誰の目にも明らかな死となります。ですから、イエスは「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場にいあわせなかったことを喜んでいます。」と言われたのです。 イエスさまが駆けつけなかったという姉妹への塩対応の理由は、ラザロの死が誰が見ても明らかな死であるために、時間の経過が必要だったからです。

Ⅱ.イエスの塩対応は、駆けつけるより祈ることの優先性を教えてくれる

このわざの影響はとても大きく、これがきっかけで、いのちを与えるイエスさまはいのちを失うことにつながっていきます。「この病気は死で終わるのではなく、神の栄光のためのもの」 ヨハネ福音書では、栄光とは十字架と復活を指します。イエスさまもラザロも死んで、墓に葬られて、そこからよみがえりました。ラザロの復活はもう一度死んだと言う点で異なりますが、この後起こるイエスさまの十字架と復活と同じように、「神の栄光のため、神の子が栄光を受けるためのもの」でした。
しかし、理屈としてはわかるのですが、イエスさまの行動は、この姉妹たちには、酷でしたね。すごくイエスさまに期待していたと思います。イエスさまが到着された4日目からさかのぼると、使いがイエスさまに会った頃にはすでに死んでいたことも考えられます。だとすると、危篤状態だった。イエスさまはことばだけでいやすことのできる方でしたから、姉妹たちはせめて「ことば」だけでも期待したかもしれません。しかし、イエスさまは、動きもせず、励ましや慰めの温かいことばもなかった。一番肝心なとき、ここ一番というときに助けてくれなかったのです。そういうことは、普通の人間関係なら、信頼関係が揺らぐことになるでしょう。

イエスさまは一体何もせずに、2日間すごされたのでしょうか。少し後のラザロの墓から石をとりのけた場面を見ましょう。41~42節「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。『父よ、わたしの願いを聞いて下さったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いをきいてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。』」 イエスさまは、祈っておられたのです。使いの知らせを聞いたときから、ラザロのために、ラザロの身体が腐敗せず保たれるように、悲しみにある姉妹のために。もしかしたら、イエスさまは駆けつけたかったかもしれない。しかし、この病気は死で終わるものでなく、神の栄光のためのものでした。イエスさまは父が必ずイエスさまの願いを聞いてくださることを信じ、駆けつけるより、祈っておられたのです。祈ったときから、神さまが働いてくださることに賭けたのです。

今日の開会聖句は、ヨハネ福音書15:7「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」 わたしは正直疑っていました。何でも求めたら、かなえられるなんて。でも、今回本当だと思いました。合点しました。祈っても、祈っても、目の前の現実はなかなか変わらないと、疑ったり、あきらめたりします。でもそれは祈りが聞かれてないことではないのです。神さまは祈りを聞いたときから、働かれるお方です。私たちの思い通りに事は運んでいないかもしれない。でも、聞いたときから私たちの最善を思い、ご自身の栄光のために働いておられる。イエスさまの塩対応は、私たちに行動を起こすより祈ることの優先性と、祈ったときから神は働いてくださっていることを教えてくれたと思います。

<終りに>

最後に、今日のところから祈りについて3つのことを確認しましょう。①問題解決よりも祈りが先です。祈ると、神は動き出されます。私たちの日々の重荷に神が関わってくださるのです。このことを期待しましょう。②答えられない祈りはありません。見えるところがどうであれ、神は働いておられます。プロセスは色々あるでしょう。考え直すように促されるかもしれません。しかし、神は祈りの最善の答えのために働いてくださるのです。③最も良いときに祈りは聞かれます。もう少し祈り、もう少し待ちましょう。

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新聖歌

開会祈祷後:211番、メッセージ後:190番

聖書交読

詩編113篇 1~9節

2022年教会行事

8月31日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2831

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