土地は主のもの

メッセージ

<レビ記 25章 23~34節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

土地は、買い戻しの権利を放棄して売ってはならない。土地はわたしのものである。あなたがたは、わたしのもとに在留している寄留者だからである。

<レビ記 25章23節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:8/14 PM 3:04 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。  
<序論>  
・「レビ記」25章前半は、7年毎に訪れる「安息の年」や50年毎に訪れる「ヨベルの年」について書かれています。そして、先程、読んでいただいた後半は、主に土地に関する事柄が書かれています。今朝は、「土地は主のもの」と題して、皆さんとみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、土地を買い戻す権利

イスラエルでは、24節にあるように、どの土地においても、土地を買い戻す権利を認めなければならない、とされていました。その理由は、今朝の開会聖句23節にあるように、土地は究極的には主のものだからです。イスラエルの民は、無償で一時的に居住する寄留者、賃借人のような立場であり、自分の利益や権力を得るために土地を売買することは許されなかったのです。イスラエルの民が自分の土地を手離すことができるのは、25節にあるように「落ちぶれて」、つまり貧しさの故にという場合だけでした。また、買戻しの方法は三通りありました。第一は近親者が買い戻す方法。これは、あの「ルツ記」でボアズがしたことですね。そして、第二は売主が買い戻す方法。第三はヨベルの年まで待つという方法でした。つまり経済的に余裕がなくて買い戻せないとなっても、ヨベルの年まで待てば土地は無償で売主に返されたわけです。いわば原状回復ということですが、これには富の偏在を防ぐという目的もあったと思われます。ですから買主は土地を他の誰かに転売することはできなかったんです。買戻しの際の値段は、27節にもあるように、ヨベルの年までの残りの年数に応じて、つまりその土地から採れるであろう収穫物を計算して(収益性で)、決められたようです。
この「レビ記」は、3月にお話ししましたように、出エジプトの民がシナイ山に幕屋を設立した時から、シナイ山を出発するまでの間に、神がモーセに啓示されたものでした。もちろん、その後の社会的状況の変化に伴い、必要な条項が付加されたり、削除されたりすることは、その内容から見て、当然、あったと考えるのが自然だと思いますが、基本的なことはモーセ以来と言えるでしょう。ですので、この土地に関する規定も、まだ、実際にイスラエルが約束の地カナンに入るずっと前に命じられたことになります。神は、彼らが約束の地に入った後、土地を巡って争わないように。否、そういう争いが起きるということを見越して、このような細かな規定を命じられたのかな、と思わされました。それほど、私たち人間は、他人よりもできるだけ広くて豊かな土地を手に入れたい、土地に執着しやすいということでしょう。

2.人にはどれほどの土地がいるか

ロシアの文豪トルストイの作品に、「人にはどれほどの土地がいるか」という短編小説があります。主人公のパホームは貧しい農民でしたが、妻と義理の妹とのちょっとした会話をきっかけに、広い土地を手に入れたいと願うようになります。そして、次々に、より広い土地、広い土地を求めて、実際にそれを自分のものにしてゆきます。けれども、しばらくすると、その広いと思って満足していた土地も、なんだか物足りなく、狭いように感じてくるのです。しかし、ある時、自分の好きなだけの土地を格安で買うことができる村があるということを聞き、喜び勇んで出かけて行きます。ただ、好きなだけとは言っても、日の出とともにスタート地点から歩き始めて、欲しいだけの土地の隅に印をつけて曲がり、日没前に帰ってくるのが決まりでした。帰れないとお金は全部没収されるのです。スタート地点には村長の帽子が置かれ、パホームはぐんぐんぐんぐん歩き出します。「俺が歩いた土地は全部俺のものだ!」しかし,喉は乾くし、休憩してもいいのですが、その分、損をするかと思うと休むこともできず、速足で歩き続けます。日没近くになって、もう帰らないとスタート地点まで帰り着けないと気づいたパホームは慌てて走り出します。そして、遂にスタート地点まで帰り着き、日が沈む前に何とか帽子をつかむことができました。けれども、前のめりに倒れたパホームは、そのまま口から血を流して死んでしまったのです。彼の召使は亡くなった主人をたった6フィートの長さの普通の墓穴を掘って埋めた、という話です。
あのロシアのプーチン大統領は、自分に最も影響を与えた文学作品は、トルストイの「戦争と平和」だと言っているそうですが、この「人にはどれほどの土地がいるか」という作品は読んでいないのでしょうか?まぁ、もし読んでいたなら、ウクライナに侵略戦争を仕掛けるようなこともなかったのでは、と思ったりもします。

3. 城壁を巡らした町の住居等

さて、29~31節をご覧ください。城壁を巡らした町の住居を売るときは、売ってから一年間は買い戻す権利があるとか、周りに城壁のない村々の家の場合はそうではないとあります。これはどのように解釈すればよいのでしょうか?まず、ここで述べられていることは住居(建物)についてのことなので、それまでの土地に関することと区別して考える必要があると思います。これらの箇所には色々な解釈があるようですが、恐らく、城壁を巡らした町の住居の場合は、神が造られたものではなく人が造ったものなので、ヨベルの年の規定は適用されなかったのではないでしょうか。そして、その買戻しの期限が一年間とされていたのは、土地を持たない外国人や改宗者がそのような家を買って住んでいた場合への配慮ではないかと思われます。彼らがいつまでも不安定な状態というか、追い出されてホームレスになってしまうかもしれないという不安を抱えて暮らすことのないように、ということでしょうか。脱線しますが、今、日本では、中国の人たちが日本の不動産が割安だということで、投資目的で買い占められて、それが一部で問題視されています。ちなみに、中国では、土地はすべて国家(共産党)のもので、例えば居住用の土地は70年間という期限付きで国から使用権を得て住むような形になっているそうです。ですから中国の不動産市場では、その使用権を売買するみたいですね。聖書に戻りましょう。32節以降のレビ人に関する規定は特別優遇措置とも言えるでしょう。ただ、レビ人には他の部族とは違い相続地はなかったので、例外的にこのような特別な権利が認められていたのではないでしょうか。

<結論>

以上、色々と見てきましたが、「土地は主のもの」であるということは、イスラエルの民が約束の地カナンで生きていくために守らなければならない律法であり、基本原則でした。そして、それは今の私たちにも大切な真理を教えてくれていると思います。日本人宇宙飛行士の毛利衛さんは、地球に帰還した後、「宇宙から国境線は見えなかった」と言ったそうです。明日は77回目の「終戦の日」ですが、私たち人間は、地球の至る所に国境線を引き、心の中に壁を築き、国と国、民族と民族、そして、時には同じ国や民族同士で憎しみ合い、殺し合ってきました。そして、それは残念ながら、今現在も続いています。あのパウロは、「エペソ人への手紙」で次のように言います。

『実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました』(エペソ2:14~15a)。

この隔ての壁とは、当時のエルサレム神殿にあったユダヤ人の庭と異邦人の庭とを仕切る壁のことでした。そして、パウロはさらに、「ガラテヤ人への手紙」で次のように言うのです。

『ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです』(ガラテヤ3:28~29)。

今朝の場面でモーセを通して律法を授けられたイスラエルの民、ユダヤ人は、それからしばらく後に約束の地カナンの相続人となります。私たちはユダヤ人ではありませんが、キリストにあって、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのだ、と聖書は言っています。私たちの相続地はもちろん、この地上にある仮の相続地ではなく、天にある真の相続地です。このキリストこそ私たちの平和です、とこれからも宣ベ伝えてゆきたいですね。

メッセージ内容のダウンロード(PDF116KB)

新聖歌

開会祈祷後:7番、メッセージ後:399番

聖書交読

詩編111篇 1~10節

2022年教会行事

8月17日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2829

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2022年8月13日 at 8:25 PM -

    ラジオドラマ版の「人にはどれほどの土地がいるか」(トルストイ)
    15分程のコンテンツです。お聞きになってみてくださいね。
    https://youtu.be/UbkNsh0yA4Y