聖さと権威

メッセージ

<レビ記 22章 1~9節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

<ペテロの手紙 1章16節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:8/7 PM 1:39 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。  
<序論>  
・今年の3月前半、コロナによる蔓延防止が発令中のため教会での礼拝はお休みでしたが、「レビ記」前半からメッセージをしました。今回は後半からになります。「レビ記」の中でも17~26章は「神聖法典」、もしくは「聖潔法典」と呼ばれています。その理由は、今朝の開会聖句でペテロが引用しているように「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」ということばがたびたび出てくるからです。神に選ばれたイスラエルの民全体が聖でなければならないとされ、そのための事細かな教えが書かれています。新約の時代に生きる私たちは、それらの教えをそのまま受け取ることはできませんし、その意味さえ理解できないようなところもありますが、それらの中には、時代を超え、国や民族を超えた普遍的な真理が隠されていると考えます。今朝は、「聖さと権威」と題して、ともにみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、アロンの子である祭司たちへ

今、お話しした「神聖法典」のうち、17~20章までは、「アロンとその子ら、またすべてのイスラエルの子らに告げよ」と、イスラエルの民全体に教えが語られますが、21章、そして今朝の22章では、「アロンの子である祭司たち」への教えが語られます。主の定めを守り教える祭司は特別な注意をもって自らの聖さを維持しなければならないとされていました。それは、祭司はすべての点で民の模範とならなければならなかったからです。2節とか3節にある「聖なるもの」とは、イスラエルの民が祭司のために献げる食物のことです。祭司はそれが自分自身の汚れによって忌むべきもの(汚れたもの)とならないように慎重に扱わなければならないとされていたのです。そして、前の21章では、肉体的な欠陥などのため、祭司として不適格とされる場合、その務めができなくなるとありましたが、今朝の22章では、そうではなくても、祭司がその身の汚れによって聖なる食物に与れなくなる場合について述べられています。ちなみに、3節に「聖なるものに、汚れたままで近づくなら、その人はわたしの前から断ち切られる」とあります。これはモーセ五書の中でもここだけに見られる表現で、他では「民のうちから(断ち切られる)」となっていますので、もし、祭司がその戒めを破った時には、特別厳しい裁きがあるということかもしれません。そして、その汚れの具体例が4節、5節に出てきます。ツァラアトに冒された者、または漏出のある者、等々。ツァラアトというのは、昔の新改訳の訳では「らい病」となっていましたが、前の訳からこのように変わりました。それは、「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態」のことです。つまり、人間で言うならば、何らかの皮膚的な疾患ということですね。ちなみに「らい病(ハンセン病)」は一般的に感染しにくい病気だそうですが、皮膚病の中には感染しやすいものもあったでしょうから、神はこのような律法を与えられたのかもしれません。ただ、私たちがくれぐれも気をつけなければならないこと、忘れてはならないことがあります。それは、この律法で規定されている聖さとは、あくまでも、聖なる神に仕えるために必要とされたもので、それを自らの権威と結びつけ、他の人たちを見下すとか、或いは、差別するようなことは、決してあってはならないということです。

2.祭司の王国

「日々のみことば」では、先週のデボーションの箇所は22章より少し前の所でしたが、色々なことに気づかされました。例えば、19章9節。

『あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない』(レビ19:9)。

それは次の10節にあるように、貧しい人と寄留者のためです。あの「ルツ記」にありましたよね。また、14節には次のように書かれています。

『あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは主である』(同19:14)。

実際にこれらの教えがどれだけ厳格に守られていたのかは分かりませんが、これは今日で言えば、社会的に弱い立場にある人たちを守るための社会保障(福祉)と言えます。今から3000年以上も前のイスラエルにおいて既にそのような規定が存在したのです。これらの箇所は、最初に申し上げましたように、祭司だけでなくイスラエルの民全体に語られた教えでしたが、もちろん祭司は、より一層厳格にこのような教えを守る義務があったと言えるでしょう。ただ、それと同時に、神は、出エジプトの際に民全体に向かって、

「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エ19:6)

と言われましたし、新約においても、

『しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です』(Ⅰペテ2:9)

とあります。祭司であろうとなかろうと、或いは、牧師であろうとなかろうと、あのルターが唱えたように、私たちは、神の御前では等しく祭司、万人祭司であるというのが、私たちプロテスタント教会の信仰の立場です。

3. この世の権威

そして、この聖さを求める、きよくなければならないという教えは、先程も申し上げましたが、ややもすると、この世の宗教的な権威と結びつく危険性を孕んでいると言えます。その権威を用いて人々を自分たちの思うようにコントロールしようとする輩がいるんです。安倍元総理の事件以降、統一教会と政治家との関係が盛んに報道されていますが、考えてみれば、このような問題は古くて新しい問題で、キリスト教の歴史の中で長く続いてきた問題と言えるでしょう。宗教改革以前は、教会と国家(政治)とは結びついていたどころか一つでしたし、統一教会がやっているマインドコントロール、「献金しなければ地獄に落ちる」とか「あなたの家族の霊が地獄で苦しんでいる」というような教え(脅し)は、結局、聖さもお金で買える、天国行きの切符もお金で買えるという、宗教改革の発端となった、あの「免罪符」に通じるようなことだと思うんですね。
今月号の「よきおとずれ」の巻頭言は泉北教会の眞鍋献一先生でしたが、先生は、その「新しい可能性への道」と題された一文の中で次のように書いておられました。

「新約聖書は、サタン・罪・死といった言葉だけでなく。主権・支配・権威といった言葉もこの世界を支配する力として描いています。(コロサイ1:16、2:15、ローマ8:38など)人格をもった悪霊のように描かれる場合もありますし、支配権を行使する人々・体制、また力それ自体を意味する場合もあります。私たちの日常に当てはめると、人を圧迫するような宗教支配や政治権力、ある人たちの生き方を貶める習慣や考え方と言えるでしょう。福音書では取税人やツァラアトに冒された人は、社会から排除されるような習慣や考え方の対象でした。祭司長や律法学者は人を圧迫する宗教支配・政治支配を行う側でした。(現代ならどうなるでしょうか?)罪は個人の内面にのみ働くという印象があるかもしれません。しかし、もっと広くこの社会の様々な領域で働いている。神に信頼し、人と支え合って生きることを妨げるすべてである。これが新約聖書の理解だと言えます。」

<結論>

今日はこの後、聖餐式が行われます。私たちは、聖餐式でパンと杯をいただくたびに、イエス様の十字架の贖いによって罪赦されたことを覚え、神の御前できよくしていただいたことを感謝します。ただ、この聖餐式は、私たちがこの地上で信仰の歩みを続ける限り、ずっと繰り返し行われるものです。それは、私たちの聖さは、元々、私たちに自身に由来するものではないからだと思うんです。今朝の7節に、

『しかし、日が沈めば彼はきよくなり、その後で、聖なるものを食べることが許される。それは彼の食物だからである』(レビ22:7)

とありましたが、新約聖書の「エペソ人への手紙」にも、『怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません』(エペソ4:26)

というみことばがあります。この罪の世界の中で、本当にきよくする権威を持っておられる方に、日々、きよくしていただきましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF107KB)

新聖歌

開会祈祷後:366番、メッセージ後:379番

聖書交読

詩編110篇 1~7節

2022年教会行事

8月10日(水)はお休みです。

#54-2828

Comments are closed