メッセージ
<ヨハネの福音書 10章19~39節>
信徒:K
開会聖句
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
<ヨハネの福音書 1章17節>
メッセージ内容
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<はじめに>
・先月は、イエスさまは羊の本物の牧者、いのちを捨てて守る牧者だという話をしました。福音書にはもう1つ別の羊の話がありまして、こちらの方が有名でしょう。
「もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。もし、見つけたなら、その人は迷わなかった九十九匹の羊以上に、この一匹を喜びます。」(マタイ18:12~13)
たった一匹をイエスさまは大切にして下さる方だということで、絵本や聖歌でも知られています。実は、ルカ15章にも同じ記事がありますが、この一匹がどんな羊だったかという点で、少し違いがあります。マタイの場合は前後関係から、この一匹は共同体(教会)から迷い出たクリスチャンのことです。ルカの場合は限定されてなく、「いなくなった羊」と記され、まだ福音を聞いてない、ノンクリスチャンかなと考えられます。イエスさまも10:16で、わたしの羊には、囲いに属する羊(ユダヤ人)だけでなく、囲いに属さないほかの羊(異邦人)もいると言われました。しかし実際には、ほかの羊はもう少し後の教会の時代に託し、イエスさま自身が仕えられたのは、囲いに属する羊なのに、とても聞き分けの悪い羊でした。今日はそんな羊に仕えるイエスさまの姿から、イエスさまが大切にされたことを2つ「父への忠実」と「父のみわざ」について考えます。
Ⅰ.イエスが大切にされたのは、父に忠実であること
19~21節「これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が…。」
これらのことばとは、1~18節の牧者のたとえで、彼らが羊の世話をしない怠慢な指導者であることに気づかせるための話でしたが、彼らのイエスさまへの評価は「悪霊につかれている」と「そうではない」に分かれました。「再び」とあるのは、実はもう3度目の分裂で、はじめは仮庵の祭りのとき(ガリラヤから預言者が出る?)、次は生まれつきの盲人のいやしの後で(安息日である!)。結局彼らはいつまでもイエスさまを正しく知ることは出来ません。
これは22節「宮きよめの祭り」の頃のことです。この祭りはヨハネ福音書のここだけに登場し、別名「神殿奉献の祭り」。過越や仮庵の祭りのように、出エジプト由来ではなく、新しいです。BC2世紀のエルサレム神殿にギリシャのゼウス像が置かれ、豚が捧げられたという事件に端を発します。ユダヤはずっと他民族に支配され、この時のシリアのアンティオコス4世は、ユダヤのギリシャ化を一気に進めるため、ユダヤ教を排除しようとします。ユダヤ人たちはこれに激しく反発し、マカベアというリーダーのもとに、3年後に神殿を奪回し、新しく祭壇を奉献しました。これが由来です。イエスさまの時代、ローマ政府は宗教には口出しせず、ある程度の自治をユダヤ人に任せていましたが、ユダヤ人にとって、どの祭りも、ローマを追い払い、完全な自治を取り戻してくれる政治的メシアへの期待の高まるときでした。
ユダヤ人たちがイエスさまを取り囲み
「いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」(24)
と質問します。イエスさまの返事は
「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。…あなたがたがわたしの羊の群れに属していないから。」(25,26)
イエスさまのことばは厳しいです。先ほどは、ユダヤ人は囲いに属する羊だと言われましたが、ここは彼らを突き放したようなことばです。また彼らの反応がわかりながら30節では「わたしと父は1つである。」と言われました。案の定、彼らの怒りは沸点に達し、石打ちの刑にしようとします。これも再びと、2度目です。前回は即その場を去られましたが、ここでは彼らに向き合い、「どのわざのために?」と問われます。彼らは「わざではなく、自分を神とする冒涜のためだ」と答えます。その後、イエスさまは人間の王たちを「神々」と呼ぶ例を取り上げ(詩篇82)、十分に責任を果たせない王たちのことを「神々」と呼んでいるのだから、父のわざを忠実に行うわたしが、自分を「神の子」と呼んで、どこが冒涜なのかと、皮肉交じりに反論されます。そして最後に
38節「わたしが信じられなくても、わざを信じなさい。それは父がわたしにおられ、…深く理解するようになるためです。」
と、ことばを終えられました。
イエスさまは100匹いたら100匹を大事にされます。
「わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。」(29)
と考えておられるからです。羊が聞き分けがいいか悪いかは問題ですが、イエスさまが大切にされたのは、父への忠実でした。私はよく寝床で一日を振り返り、あのことは良かった、感謝だった、嫌だったとか色々思うのですが、目に見える結果ばかり見ていて、今日私は神さまに忠実だったかということまでは考えてない気がしました。皆さんはどうでしょう?イエスさまが大切にされたことは父に忠実です。
Ⅱ.イエスが大切にされたのは、父のみわざをあらわすこと
2つめは、わざについてです。「たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。」とイエスさまは繰り返し言われてきました。そして、わたしのわざは
「父の名によって行うわざ」(25)、
「父から出た多くのよいわざ」(32)、
「父のみわざ」(37)
と言われます。イエスさまのなさるわざは、イエスさま一人の思いつきや考えではなく、父が与えられたわざです。ヨハネはイエスさまの「しるしによる宣教」として、7つのわざを取り上げています。
ぶどう酒の奇跡、
病気の息子のいやし、
38年歩けなかった人のいやし、
5千人のパン、
湖を歩く奇跡、
生まれつきの盲人のいやしと、そして
ラザロの復活。
わざには、どんな説得力があるのか。まず、この人はただものではないと思わせます。「良い人」「預言者」「神から出た者」など。弟子だけの体験でしたが、イエスさまが荒れ狂う波の上を歩いたとき、「この方は一体何者だ」と弟子たちは驚いたはずです。また、メシア預言にあるわざ(歩けなかった人が歩き、目の見えなかった人が見る)を行うことで、メシアの有力な証拠になったでしょう。しかし、イエスさまがわざをされたのは、人間にはできない超能力を見せて、驚かせ、納得させるという方法ではありませんでした。イエスさまは律法を守るユダヤ教信者でしたが、律法を破ってでも、目の前で苦しむ人を放っておけなかったのです。それが父の思いだったからです。父の愛がイエスさまを通して溢れ出した、ほとばしり出たという、そういうメシアの証明方法であったと思います。
今日の開会聖句は、
ヨハネ1:17「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエスキリストによって実現したからである。」
です。囲いに属するとか属さないとかの話をしましたが、それを区別するものは何か?律法を持つ、持たないです。律法は奴隷であった民を解放してくださった神が、「この先もあなたたちと共にいて守ります。」と契約を結ばれたとき、モーセに与えられました。律法は、神との関係、人との関係の中で、「これを守れば互いに幸せに暮らせます。」というルールで、神さまからの愛の贈り物でした。そういうユダヤ人の考えを前提にして、ヨハネはイエスさまを、書かれたものよりはるかに優れたもの、神のことばが人となって私たちのところに来られ、神さまの愛をリアルに見せてくださった方だと紹介しました。神の愛とはこういうものですと、生で示されたのが、イエスさまの恵みとまことのわざで、クライマックスが十字架です。2つめのイエスさまが大切にされたのは、父のみわざをあらわすことです。
<終りに>
私たちは、イエスさまが実現された恵みの時代に生きているのですが、この時代にふさわしい「忠実」について最後に考えてみましょう。なぜかというと、「忠実」ということばは、恵みより律法のイメージがあるからです。日本人は忠実な国民だと言われます。ずっとマスクをつけているし、行列を守れるし、仕事にも熱心です。もし、忠実なクリスチャンと聞いたら、どんな人物を想像しますか。礼拝をきちんと守る、毎日聖書を読んで祈る、熱心に奉仕をしている人とかが思い浮かびます。それはそうですが、私は恵みの時代にふさわしい忠実とは、神さまに信頼して生きることではないかと思います。簡単ではありません。
例えば、神の支配を信じること。
「私の時は御手の中にある」(詩篇31:15)
「すべてのことを働かせて益としてくださる。」(ローマ8:28)
又、神の所有を認めること。自分のものは、獲得したと思っていることが多いですが、実は神に与えられたもの。
「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)
もう一つ、神の考えに倣うこと。
「受けるよりも与える方が幸いである。」(使徒20:35)
先週も賜物は皆の益のためと教えられましたが、私のものだけど、分かち合うときに幸いがあります。 思いつく例をあげましたが、イエスさまの恵みのわざによって、この世界を支配しておられる方は愛に満ちた方だと知らされました。ですから、この神さまの愛に信頼し、日々そこからスタートすることが、クリスチャンの忠実ではないかと思います。どうでしょう?
新聖歌
開会祈祷後:217番、メッセージ後:317番
聖書交読
詩編108篇 1~13節
2022年教会行事
7月27日(水)オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
#54-2826
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