北部地区牧師巡回講壇交換
メノナイトブレザレン教団の教会のうち、大阪府北部地区の教会が共に手を携えて、全ての教会をサポートし合う活動として行っており、今回は星田チャペル牧師の田中 芳文先生をお迎えしました。当千里キリスト教会牧師は、総持寺教会でご奉仕をいたします。
メッセージ
<コリント人への手紙 第一 12章12~31節>
メッセージ:MB星田チャペル牧師:田中 芳文
開会聖句
あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
<コリント人への手紙 第一 12章27節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:6/19 PM 2:36
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
1.キリストと「からだ」(12―26)
- 人間のからだは、ひとつであると同時に、多くの部分からなる。(12a)
- キリストも同じである。(12b)⇒「キリストのからだである教会」
- 人種身分を超えて一つのからだとなった。(13a)
- 理由(13b)
① 一つの御霊によって洗礼を受けたから
② 一つの御霊を飲んだから ⇒「注ぐ」
③ 同じ御霊に満たされているから - 「からだのモチーフ:多くの部分で一つのからだ」(14―20)
① からだは、多くの部分から成り立っている。(14)
② 足が手に向かって(15)耳が目に向かって(16)「からだに属さない」
③ もしも、からだ全体が目だったら・からだ全体が耳だったら?(17)
④ 神が御心に従って、それぞれの部分を備えて下さった。(18)
⇒神様の主権性、神の主体性、神のデザイン
⑤ 多くの部分でからだが形成されている。(19-20) - 弱い所・劣った所(21―26)
① 目が手に向かって、頭が足に向かって、「あなたはいらない」と言えない。(21)
② 弱い部分 :なくてはならない(22)
③ 劣った部分 :見栄えを良くして組み合わされる(23)
④ 理由(25―26)
・分裂がなく、互いに配慮し合う為
・共に苦しみ、共に喜ぶ為
*12章前半の「賜物」の議論に戻り、13章の「愛がないなら」につながっていく。
【生 命】
同じであるということと、一つであるということとは、全く別のことです。同じであるものの間には、対立も緊張も分裂もなく、従って発展も成長もなく、生命はそこにおいて存在しえません。同じとは死の相です。これに対し、一つとは、相違するものが対立をはらむ緊張の中で、忍び合い譲り合い、理解し合いそれぞれの分に応じて働き、助け、補い合って結ばれてゆく努力のことであり、それは創造的いとなみとして、まさに生命の相なのです。生命あるものは皆、相違しています。そして皆、一つであることを希求しています。
【散って生きる】
一人で事をなすよりは志を同じくするものが結束すれば効果的でしょうし、それに仲間もできて淋しくありませんから、結束することを当然のことのように、私たちは思っています。しかし、結束には個人の微力からのあせり、個人の孤独からの逃避、要するに個に対するごま化しが、そして何よりも力をたばね合わせて事を成し遂げようとする人間の自己完結が、そこにはあります。結束が固ければ固いほど何か芝居がかってくるのは、そのためでしょう。私たちは実は、普通考えているよりもっと散って生きるべきものなのです。
【一 致】
話し合ってゆくうちに、相違している立場が一致点を見出すかに思える場合があります。しかし、厳密に問うてゆくと、矢張り相違点は残っています。もし、一致が同一を意味するのなら、完全な一致というものは、おそらく存在しないでしょう。そのような存在しえない一致を求めるから、時には、自説の押しつけをし、時には、虚構の一致に妥協するのです。一致とは、相違しているものが同一になることではなくて、実は、それらが補完し合うことなのです。補完だけが一致なのです。人間は、それほどに深く相違しています。
【一体感】
人は何によって一つになるのでしょう。一つの目標を目指すことにおいてでしょうか。思想や信仰を同じくすることにおいてでしょうか。そういうことで一体感を味わう人もあります。しかし、そこには人間への誤解があるように思います。人は、共通のものに関わることによって一つになるように見えて、実は、共通の事実を内に自覚するまでは、一つにはなれないものではないでしょうか。そして、おそらく罪をおいてほかに、その共通の事実に出会い得ないでありましょう。罪において一つ一体感に内容を与えるのはこれです。
新聖歌
開会祈祷後:146番、メッセージ後:143番
聖書交読
詩編102篇 1~12節
2022年教会行事
6月22日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)
#54-2821
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