メッセージ
<サムエル記第一 11章1~15節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」
<サムエル記第一 11章13節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:6/6 AM 0:07
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・「Ⅰサムエル」9~11章にはサウルがイスラエルの最初の王とされた経緯が書かれています。サウルはベニヤミン族のキシュという人の息子で、美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい人はいなかった。民のだれよりも、肩から上だけ高かった、とサムエル記の著者は記しています(Ⅰサム9:1,2)。今風に言うと、かなりの「イケメン」だったみたいです。サウルは王になってから、特に後半は色々あって、最終的に王位から退けられてしまうのですが、サムエルが次の王を選ぶ時、エッサイの息子の一人エリアブの容貌や背の高さを見て、「きっと、彼こそ、主に油注がれる者だ」と思った時、主は
「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(同16:7b)
と言われました。確かに、サムエルに限らず、私たち人間は、見た目に弱いというか、騙されやすいところがありますよね。先日、日本維新の会の石井という議員が、同党の女性立候補予定者について、「顔で選んでくれれば一番を取るのは決まっている」と発言して、すぐに撤回したということがありました。本当に有権者を馬鹿にした発言だと思うのと同時に、日本の政治のレベルの低さということも思わされます。また、この半年間の書籍のベストセラー第一位は「人は話し方が9割」という本だそうですが、柳の下にドジョウが二匹。「人は見た目が9割」という本も売れているそうです。完全なパクリというか、便乗商法ですが…。
ただ、今朝の主人公であるサウルは、決して見た目だけで王に選ばれたわけではありませんでした。また初めからダメな王というわけでもありませんでした。少なくとも、今日の11章までは順調な滑り出しであったと言ってもよいのではないかと思います。
<本論>
1、ヤベシュ・ギルアデ
1節のアンモン人というのは、モアブ人と同じく、アブラハムの甥のロトの二人の娘を祖先とする人たちで、イスラエル人と血のつながりのある人たちでした。しかし、その誕生の経緯からして、いわくつきと言うか訳ありで(詳しくは「創世記」19章の最後をお読みいただければと思いますが)、やがてイスラエルと敵対し、大いに悩ませる存在となるのです。ナハシュというのは蛇という意味なんですが、彼は、その名の通り、狡猾で残忍な人物であったのではないかと思います。ただ、ヤベシュ・ギルアデの人たちも、実に情けないと言うか、ナハシュが攻めて来た時、あっさりと、戦わずして降伏してしまうんですね。そして、1節後半。
「私たちと契約を結んでください。そうすれば、あなたに仕えます。」(Ⅰサム11:1b)。
そのことばを聞いたナハシュは、彼らに無茶な条件を突きつけてきます。
「次の条件でおまえたちと契約を結ぼう。おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。それをもってイスラエル全体に恥辱を負わせよう。」(同11:2b)。
これは、右の目をつぶせば、左の目は左手で構える盾で覆われてしまうので何も見えなくなり、戦えなくなるということを意味します。今回のウクライナでの戦争もそうですが、戦争で相手方に無茶な要求を突きつけるというのはよくあることです。ナハシュはそれほどヤベシュの人々を見下していたのでしょう。そして、そんな屈辱的な要求を突き付けられたヤベシュの長老たちは、3節にあるように、七日の猶予を求め、国中に使者を送って救国の戦士を、かつての士師のような戦士を求めます。けれども、その知らせを聞いた民の反応はどうだったでしょうか?民はみな、声をあげて泣いた。誰一人としてヤベシュの人々を救い出し、自分の国の恥辱を晴らそうと立ち上がる人はいなかったのです。
ちょうどそのとき、サウルが牛を追って畑から帰って来ます。ここで皆さんも不思議に思われたかもしれません。サウルはすでにイスラエルの王に即位していたのではなかったのか。それなのに、牛を追って畑から帰って来るって?立派な王宮はまだ無かったとしても、王様だったら、そんな牛飼いのような仕事をしているのはおかしいのではないかと思われたかもしれません。そもそも、このサウル王即位に関するエピソードについては、三つの異なる伝承を、後日編集したもので、だから、このような記述になったのだろうという見方も存在するようです。ただ、少し前の10章1節でサウルがサムエルから油を注がれた時、そこにはサウルとサムエルの二人しかいませんでした。後でおじからその時のことを聞かれた時、サウルは、どうでもいい雌ろばのことは話しましたが、サムエルから油注がれたこと、つまり王位を授かったことについては話しませんでした。それは、まだ彼の中に、自分は王に選ばれたという確信と言うか自覚が無かったからではないでしょうか。だから、その後、くじで王に選ばれた時にも、彼は荷物の間に隠れたのです。そして、よこしまな者たちが「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って彼を軽蔑し、贈り物を持ってこなかった時にも、ただ黙っていたのです。サウルはサムエルによって、否、主によって確かに王に選ばれていたのですが、自分も半信半疑、周りの人たちも何か半信半疑なところがあったのかもしれません。けれども、目の前の危機が、彼を、そして周りの人たちの意識を変えます。アンモン人ナハシュによってイスラエルに危機が迫った時、神の霊がサウルの上に激しく下り、彼は主に選ばれた真の王として立ち上がるのです。
今日はペンテコステです。イエス様は天に上って行かれる前、使徒たちに言われました。
『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります』(使徒1:8)。
旧約の時代には、今朝のサウルのように神から特別な使命が与えられた人にだけ神の霊(聖霊)が与えられました。しかし、新約の時代には、すべてのクリスチャンに聖霊が与えられる、と聖書は言っています。そして、ペンテコステはもう一つ、教会が誕生した日でもあります。ですから、私たちがキリストの証人となるということは、キリストのからだである教会の各部分とされた私たちが一つになって歩むように召されていることと密接に関係していると思います。からだの各部分が同じではないように、私たちも全く違う者同士です。しかし、「使徒」2章の終わりに描かれている最初のエルサレム教会のように、それぞれが同じではなかったとしても、心を一つにして、互いに助け合いながら歩むことはできるのではないでしょうか。
<結論>
さて、サムエル記に戻りたいと思いますが、サウルが神の霊によって造り変えられ、王としてのリーダーシップを発揮したことによってイスラエルは大勝利を収めます。7節にある、一くびきの牛を切り分け、使者に託して国中に送ったというエピソードは、「士師記」19章以降の、あの恐ろしい出来事を想起させます。ベニヤミン族の町ギブアで、その住民たちになぶりものにされ、殺された自分の側女の体を、あるレビ人が十二に切り分け、国中に送ってベニヤミン族への報復を誓わせたという。その結果、ベニヤミン族の女たちは根絶やしにされ、彼らは部族滅亡の危機に陥るわけですが、その時、他の11部族は彼らを救済するため、この戦いに全く協力しなかった町ヤベシュ・ギルアデを聖絶し、生け捕りにした若い女性たちをベニヤミン族に与えるということをしたのです。ギブアはサウルが住む町でもありましたが、何か不思議な因縁を感じさせます。ただ、今回は、そのヤベシュ・ギルアデの人々を救うために全イスラエルが立ち上がったわけです。ある方は、それは、イスラエルの歴史の中で不名誉で恥ずべき最悪の罪を犯したベニヤミン族とその町ギブア、そして彼らへの報復に協力しなかった、滅びて当然であった町ヤベシュ・ギルアデの名誉が回復される出来事として、ここに記されているのだろう、と述べておられました。神のご摂理はどこまでも深く、神の愛はどこまでも大きいということですね。
最後に、今朝の開会聖句ですが、サウルは、大勝利を収めた後、かつて『サウルがわれわれを治めるのか』と言って侮った人々に報復しましょう、と提案してきた民をとどめて、「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから」と言ったと記されています。私は、このことばを読んで、新約聖書の「Ⅱテモテ」にあるみことばを思い出しました。
『神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました』(Ⅱテモ1:7)。
今朝のタイトルは「見た目だけじゃなかった王」ですが、大切なことは、サウルがどんな人物であったかということではなく、神が与えてくださった聖霊なのです。私たちも力と愛と慎みの霊を与えられた者として、今週も歩みたいですね。
新聖歌
開会祈祷後:135番、メッセージ後:415番
聖書交読
詩編100篇 1~5節
2022年教会行事
6月8日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)
#54-2819
Comments are closed