しもべの信仰

メッセージ

<サムエル記第一 1章1~18節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

<マタイの福音書 7章21節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:5/8 PM 1:50 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
<序論>  

・「Ⅰサムエル」からの二回目です。冒頭の1節のことばは、「士師記」の最後のことばを思い起こさせます。

『そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた』(士21:25)。

この王とは人間の王のことだと思いますが、それだけでなく、暗示的に神を指しているように感じます。なぜなら、人間の王をお立てになるのは神だからです。旧約のイスラエルは神の民、選ばれた民族でした。しかし、彼らは、まるで神を知らない民のように、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。それを神の側から表現したのが、今朝の「Ⅰサムエル」3章1節の、主のことばはまれにしかなく、幻、つまり主のみこころも示されなかった、ということだと思います。そんな時代に預言者として遣わされたのがサムエルでした。

<本論>
1、子育てに失敗

彼が生まれた時の経緯については先週お話ししましたが、母ハンナは、1章11節にあった誓願を守り、サムエルを祭司エリにゆだねます。1章の最後にあるハンナのことばは、やっと与えられた大切な我が子を主に献げんとする母の思いが伝わってくるようで、本当に心が打たれます。
そうして、サムエルは祭司エリの下で主に仕えるのですが、エリにはホフニとピネハスという二人の息子がいて、やはり父と同じように祭司をしていました。聖書は、この二人について次のように証言しています。

『さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった。民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。(中略)このように、子弟たちの罪は、主の前で非常に大きかった。この人たちは主へのささげ物を侮ったのである』(Ⅰサム2:12~14、17)。

エリの二人の息子はろくでもないドラ息子だったわけですが、ただ、そんな息子たちに対して、エリは何も対処しなかったのか、見て見ぬふりをしていたのかというと、決してそうではありませんでした。2章22節以降を見ると、彼らに悔い改めを迫り、そのような行いをやめるようにと忠告しています。けれども、その後の2章25節の後半。

『しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである』(同2:25b)。

人間的に見れば、エリは子育てと言うか、信仰の継承に失敗したと言えるでしょう。もちろん、もう子どもが大人になってからのことは、親の責任とまでは言えないのかもしれませんが・・。そして、聖書は、エリの二人の息子を殺すことが主のみこころであったと証言しています。
このずっと後の話になりますが、実は、サムエルにも同じようなことが起きます。サムエルにも二人の息子が与えられ、彼らもさばきつかさ(士師)として主に仕えていたのですが、8章3節をご覧ください。

『しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた』(同8:3)。

もちろん師であるエリを見習ったわけではないと思いますが、サムエルも同じように子育てに失敗するんです。子育てってホンマに難しいなぁと思わされます。ただ、サムエルとその二人の息子たちには、エリの時と同じようなさばきが下されることはありませんでした。その代わりに、このことがイスラエルに王が立てられる一つのきっかけとなります。主のご計画は私たち人間には計り知れないと思わされます。

2、エリの信仰

そして、そのように、私たち人間の失敗をも用いてみこころをなそうとされる神は、言うまでもない事ですが、私たちの信仰に、たとえそれがどんなに小さな信仰であったとしても、その小さな信仰に応えてくださり、ご自身のわざをなしてくださる方でもあります。エリは自分の息子たちを後継者として育てることには失敗しましたが、その代わりと言っては何ですが、サムエルをわが子のように愛し、育み、主のみことばを取り次ぐ預言者に。そして、イスラエルを導く祭司、且つ、さばきつかさ(士師)に育て上げます。もちろん、それはエリを通して神がなさったことなんですが。
エリは、今朝の場面で、サムエルに語りかけておられるのが主だと悟った時、「主がお前を呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい」と教えます。そして、サムエルは啓示を受けるわけですが、彼が主から告げられたさばきについて話すことを恐れた時、エリは、すべてそのまま話すようにと促し、それが告げられた後は一切の反論や弁解をせずに、「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように」と言って受け入れるのです。そのようなエリの信仰者としての姿勢は、サムエルにとって何よりも大切なお手本となったでしょう。私たちも、私も、神様に色々なことを祈り、願いますが、どれほど、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と祈っているでしょうか。そして、自分の願うようにではなく、自分にとっては残念な結果になったとしても、「主が御目にかなうことをなさるように」と祈っているかなぁ、と思わされます。

<結論>

この後の4章には、エリの家に下ったさばきが記されています。イスラエル人は、宿敵ペリシテ人との戦いに勝つために、主の契約の箱を、シロから戦いの最前線、彼らの陣があったエベン・エゼルまで運んできます。「これでもう、俺たちの勝利は間違いない!」と彼らは思ったみたいですが、その結果はどうだったでしょうか?ペリシテ人にさんざんに打ち負かされ、歩兵三万人が倒され、それどころか、神の箱まで奪われ、エリの二人の息子オフニとピネハスは死んでしまうのです。その知らせを聞いたエリは、

『彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその椅子から門のそばにあおむけに倒れ、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。エリは四十年間、イスラエルをさばいた』(Ⅰサム4:18)。

イスラエルの人たちは、ただ自分たちが戦争に勝つために、神の箱を、神を利用しようとしました。それは、神をわがものとすることであり、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という、しもべの信仰とは程遠いものでした。
最後に、開会聖句をもう一度読みして、今朝のメッセージを閉じたいと思います。イエス様のことばです。

『わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです』(マタイ7:21)。

祈りましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF82KB)

新聖歌

開会祈祷後:8番、メッセージ後:286番

聖書交読

詩編96篇 1~13節

2022年教会行事

5月11日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)

#54-2815

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