メッセージ
<ヨハネの福音書 14章22~31節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
<ピリピ人への手紙 4章6節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:4/3 PM 5:05
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・今年の「イースター」は4月17日ですので、今はちょうど、「受難節(レント)」の真っ最中ということになります。「受難節」というのは、「イースター」から日曜日を除いて40日前の水曜日に始まり、その水曜日を「灰の水曜日」と言うそうですが、今年で言うと、3月2日から4月14日「聖木曜日」までの40日間が「受難節」です。イエス様の苦しみを思い起こすための40日間ということですね。そして、今朝の聖書なんですが、これはイエス様の告別説教とも呼ばれている説教の一部です。ヨハネが記していますのは、14~17章までと、とても長いのですが、内容的には今朝の14章の最後31節にある
「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」
ということばが結びのことばのようにも感じます。その後の15~17章までを飛ばして、18章の最初につなげると、文章的に自然な流れのようにも思えますので、新約学者の中には、15~17章までは、後日、編集の段階で挿入されたのではないか、と考える人もいるようです。
その真偽のほどは分かりませんが、これらのことばは、まさに弟子たちへのイエス様の「遺言」とも言えることばだったと思います。ですから、そこには大切なことばが、本当にたくさん、綺羅星のごとく散りばめられています。少し前の、
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ14:6)
とかですね。その内の一つが、
27節の、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます」
というみことばではないかと思うのですが、今朝は「主の平安の中を」と題して、お話しさせていただきたいと思っています。
<本論>
1、ユダからの質問
最初の7節には、イスカリオテでないほうのユダからの質問が書かれています。この質問を読んで、私は7章にあるイエス様の兄弟たちのことばを思い出しました。
『「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」』(ヨハネ7:3b~4)。
この時、イエス様の兄弟たちは、故郷ガリラヤを一向に離れようとしないイエス様に業を煮やしてと言うか、批判して、そのようなことばを投げかけたわけですが、そんな彼らに、イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」とお答えになりました。つまり、まだ神の時ではないということですね。しかし、今朝の場面では、そうではありませんでした。少し前、イスカリオテのユダが裏切るために出て行った時、イエス様は、
「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました」(同13:31b)
と言われました。言い換えれば、神の時は来たということですね。けれども、イエス様は、「その時は来たけれども、ユダよ。わたしは、あなたが考えているようには、自分を現わすつもりはないんだ」とおっしゃったのです。ユダがこの時、「世にはそうなさらないのは(つまり、ご自分を現わさないのは)、どうしてですか」と尋ねたのは、裏を返せば、「イエス様。あなたは素晴らしい力を持っておられるじゃないですか。その力を、どうして私たちの前だけじゃなくて、広く、この世に示そうとなさらないのですか?もったいないですよ」というようなニュアンスが含まれていたと思います。しかし、その後の23,24節でイエス様が言われたのは、大切なことは、わたしと、わたしを愛する人たちとの関係性なんだと。それは則ち、そこに愛の関係があるからこそ、人は喜んでわたしのことばを守るのであって、わたしのことばは、世の多くの権力者のように、何か力を示したり権威を示したりすることで上から強制的に守らせるようなものではないんだと。ご自分のわざ、神のわざは、そのような愛の関係性の中においてこそ現わされるのだ、ということではないでしょうか。
そして、イエス様は、ご自分が去った後に遣わされる助け主なる聖霊のことを話された後、「わたしの平安」について話されるんですが、この「平安」と訳されていることばは、ギリシア語では「エイレーネー」と言い、ヘブル語の「シャローム」に対応することばです。「エイレーネー」というギリシア語は新約聖書に92回出て来るんですが、私たちが使っている新改訳聖書は、その内のほぼ半分を「平和」と訳し、残りの半分を「平安」と訳しています。「平和」というと、ちょうど今、ウクライナで戦争が行われていますが、そのような戦争や争いのない静かで穏やかな状態を思い浮かべられると思います。ただ、聖書にある「エイレーネー」や「シャローム」ということばには、それだけではなく、「完成された」、或いは「満たされた」というような積極的な意味が含まれています。それは、別の言い方をすると、相対的で不安定な状態ではなく、絶対的な、何ものにも揺るがされることのない状態を指していると言ってもいいと思います。
私は、牧師になるまで、保険の仕事をしていたんですが、保険というのは契約者の方に安心を提供するための商品です。それは経済的な安心ということですが、ただ、いつ、どんな時でも、大丈夫ということではないんですね。保険用語に「免責」という言葉があるんですが、こんな時には保険金は支払われませんよ、ということが約款に書いてあります。例えば、戦争その他の変乱とか、想定されていないような大地震とか・・・。また、たとえ保険金が支払われたとしても、それですべての不安が解消されたというわけではありませんよね。イエス様が言われた、この世が与える平安というのは、そんな平安のことだと思います。それは安心と言い換えてもいいかもしれませんが、私にはお金があるから安心だとか、地位があるから、健康があるから、或は、良い家族がいるから安心だとか。しかし、それらのものは、ある時には頼りになるかもしれませんが、ある時には頼りにならないかもしれません。ある意味、相対的なものです。
今、連日のようにウクライナでの戦争のことが報道され、ロシアのプーチン大統領の心理状態というか、置かれている状況についても、憶測を含んだ報道が盛んになされています。彼は「裸の王様」のような状態ではないかと。もしかしたら彼は、怖くて怖くて仕方がないのではないか、と私は思うんです。否、それは今、始まったことではなくて、ずっと前から続いていて、いつ敵が攻め込んで来るか、いつ毒を盛られて暗殺されるか。そんな恐怖が彼の心の中に積もりに積もっていって、それがついに爆発して、あのような恐ろしいことをしでかしたのではないかと。19世紀のイギリスの歴史家で、思想家で、政治家でもあったジョン・アクトンという人は有名な言葉を残しています。それは、
「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」
という言葉です。彼はまた、その後で「偉人は殆ど常に悪人である」という辛辣な言葉も残してるんですが、政治の世界、国と国、民族と民族とが対立する世界というのは、深い闇が支配する、まさに今朝の30節のみことばにあるような「この世を支配する者(サタン)」が暗躍する世界であるということを改めて思わされます。私は、民主主義というのは、何も決められないと言うか、専制主義や独裁主義と比べて、まどろっこしい、欠点だらけの政治制度のようにも感じていたんですが、たとえそれに多くの欠点があったとしても、まどろっこしくて、時間のかかる制度であったとしても、やっぱり民主主義というのは大切なものなんだなぁと改めて思わされました。
<結論>
少し話が逸れてしまいましたが、それでは、私たちが、イエス様が言われたような「わたしの平安」「主の平安」の中を歩むためには、どのようにすればよいのか?今朝のメッセージの最後に、皆さんとともにパウロのことばに耳を傾けたいと思います。今朝の開会聖句である「ピリピ人への手紙」4章をお開きください。4章6節です。
『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい』(ピリピ4:6)。
そして、その後で、パウロは次のように言うのです。
『そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます』(同4:7)。
先週、K姉が、「ゆだねて生きる」という題で、みことばを取り次いでくださいましたが、本当に恵まれました。「ゆだねる」とは「CAST(投げる)」ことだと。淀キリのチャプレンの方の証を読んで教えられたんですが、今朝の開会聖句のみことばも、神様に私たちの思いや願い事を「投げる」ことなのかな、と思いました。それが願い通りにかなえられるか、かなえられないかは、人間の領域ではなく神様の領域のことです。しかし、私たちは、主は、すべてのことを働かせて益としてくださる、最善を為してくださる方であるということを知っています(ローマ8:28)。今週も、主の平安の中を歩みましょう!
新聖歌
開会祈祷後:109番、メッセージ後:113番
聖書交読
詩編92篇 1~15節
2022年教会行事
4月6日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10時~11時)
#54-2810
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