このため、2月6日(日)から2月20日(日)までの教会での対面礼拝を中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。
また、まん延防止等重点措置発出期間中の、日曜礼拝以外の集会もお休みします。
メッセージ
<ヨハネの福音書 12章12~19節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
<ヨハネの福音書 12章23節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:2/13 AM 0:31
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・今朝の聖書は「エルサレム入城」の場面です。イエス様にとっては、これが最後のエルサレム入りになるのですが、それは
『その翌日』(ヨハネ12:12a)、
つまり過越の祭りを前にした安息日(金曜日)の翌日のことでした。ユダヤでは日が変わるのは日没ですので、安息日が終わるのは、私たちの曜日で言うと土曜日の日没。ですから、イエス様のエルサレム入城は日曜日であったということになるのですが、このことを示唆しているのは、四つの福音書の中でも「ヨハネ」だけです。また、13節には、大勢の群衆が「なつめ椰子(新改訳の前の訳では「しゅろの木」)の枝」を持ってイエス様を迎えたとありますが、これも「ヨハネ」だけが記していることです。「詩篇」92篇などを読むと、なつめ椰子というのは優美と勝利、祝福の象徴とされていることが分かります。その葉の形は鳥の羽のようで、イスラエルでは、この葉を輪の形にして祝い事などで用いるそうです。ですから、この時も、イエス様は、まるで凱旋将軍、戦争に勝利した王のように人々に迎えられわけです。
<本論>
1、ホサナ
この祭り、過越の祭りはユダヤの三大祭りの一つですので、エルサレムに集まっていた人々の数は相当なものであったと思われます。ある時の記録として、この祭りで屠られた小羊の数というのが残されています。それは256,500匹。小羊1匹で最低でも10人は食事を楽しむことができたと思われますので、そうすると、なんと260万人もの人々が都エルサレムに来ていたことになります。その内、どれだけの人がイエス様を迎えるために集まっていたのかは分かりませんが、相当な人数であったということは間違いないと思われます。その大勢の群衆の叫び声が13節後半に記されています。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13b)。
これは旧約の「詩篇」の中でも「ハレル詩篇」と呼ばれる詩の最後の部分、118篇からの引用です。「ホサナ」とは、「今、救ってください」という意味のへブル語ですが、この時の群衆の叫び声は、「神がイスラエルの王をお救いくださいますように!」という意味であったと思われます。彼らはイエス様があのラザロをよみがえらせたという奇跡を伝え聞き、そのことが政治的関心と結びついて、イエス様を偉大な民族的英雄、
祖国イスラエルをローマの支配から解放するメシアであると期待し、熱狂的に迎えたのです。
そして、この時、イエス様は、ろばの子に乗ってエルサレムに入城された、と聖書は記しています。私はずっと、それはイエス様が敢えて勇ましい軍馬ではなく柔和なろばの子に乗ることで、人々の自分への間違った期待に抗議し、彼らが正しく理解するように促されたのかな、と思っていました。しかし、そうではないのです。イエス様はただ、旧約の預言者の預言の通りに、15節で引用されている「ゼカリヤ書」のみことばの通りになさったのです。つまり、何か群衆の誤解に抗議するためとか、彼らの誤りを正そうとされたということではなくて、ただ、ろばの子に乗ってという神様のご計画に従って、それを成就するためにそのようにされた。人々からの誤解をそのまま受けとめ、むしろ誤解の中こそがご自分の進むべき道であるかのように、粛々と、毅然として、そのようにされたのではないか、と改めて読んでみて、そのように感じました。
私たちでも、時には誤解を我慢することはできるかもしれません。しかし、誤解の中で居直るでもなく、当たり散らすでもなく、弁解するでもなく、拗ねるでもなく、諦めるでもなく、いささかも心乱されることなく、淡々と自分のなすべきことをするというのは、できないことです。ある方は、この時のイエス様の姿を、「神様の雰囲気の漂ったこと」であったと表現されていました。あの坂本龍馬の残した和歌に、「世の人は 我を何とも言わば言え 我が為すことは我のみぞ知る」という歌があります。坂本龍馬がどうだったかは分かりませんが、普通、私たち人間は、他人から誤解されることに耐えられないと思います。私も含めて、殆どの人は、理解されないよりも、理解されることを望むでしょう。しかし、イエス様は、ご自身の救いのわざをなさるにあたって、それをお求めにはなりませんでした。救いのわざは、人間の誤解を一切そのままにして、否、むしろそのただ中で、粛々と、毅然として行われたのです。
<結論>
今朝の開会聖句はイエス様のみことばですが、その前に、ヨハネは興味深い記事を書き残しています。それは、象徴的と言ってもいいかもしれませんが、今朝の箇所のすぐ後、20~22節に書かれている出来事です。
『さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した』(ヨハネ12:20~22)。
そして、23節。今朝の開会聖句です。
『すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。』(同12:23)。
さらに、24節もお読みします。
『まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます』(同12:24)。
この一粒の麦とはイエス様ご自身のことですが、豊かな実とはどのような実のことでしょうか?「ローマ人への手紙」1章16節に、パウロの次のようなことばがあります。
『私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です』(ローマ1:16)。
そうです。救いはユダヤ人だけのものではなく、ギリシア人にも、日本人にも、信じるすべての人にもたらされる。それが、イエス様が言われた豊かな実、福音のことではないかと思います。そして、それは本当に驚くべき逆説と言えますが、人の子が栄光を受ける時が来て、一粒の麦となられたイエス様がみんなの誤解の中で死ぬという、私たち人間の目から見れば絶望としか思えないような、あの十字架を通して実を結ぶのです。
今年も、我家では、小さな梅の花が満開になりました。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」ということばがあるのを知って、昨シーズン終了後、半信半疑で枝を切って、「ホンマに咲くんかいな?」と、ずっと疑っていたんですが、見事に咲きました。私は、その花を見ながら、「いのちの終わりは いのちの始め」という賛美を思い出していました。コロナの中、まだまだ厳しい日々は続きそうですが、「しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」と言われたイエス様のみことばをしっかりと握りしめて、今週も歩んで行きたいと思います。
→メッセージ内容のダウンロード(PDF95KB)
2022年教会行事
コロナ感染予防のため、お休みとなります。
#54-2803
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