ことば いのち 光

※2022年1月1日は土曜日のため、教会での元旦礼拝は行わず、2日の日曜礼拝として1階の礼拝堂で行いました、

メッセージ

<ヨハネの福音書 1章1~5節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

<ヨハネの福音書 1章5節>

メッセージ内容

Youtube動画

 
 メッセージ動画公開:1/2 PM 2:23 


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・新年、あけましておめでとうございます。今年最初のテキストは「ヨハネの福音書」です。この福音書は四つの福音書の中でも特別な地位を占めています。「マタイ」・「マルコ」・「ルカ」の三つは「共観福音書」と呼ばれるほど共通した記事が多いのですが、本福音書は、それらとは全く異なった視点で書かれたようです。また、書かれた時期もかなり遅いと考えられています。たとえ話はなく、奇跡の記事も八つのうち五つは他の福音書には見いだされないものです。そして、さらに興味深いことは、この福音書には、書かれた目的がはっきりと記されているということです。

『これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである』(ヨハネ20:31)。

今、お読みした中に「いのち」ということばがありましたが、それはどういういのちなのか?今朝は、「ことば いのち 光」と題して、皆さんとともに見てゆきたいと願っています。

<本論>
1、ことば(ロゴス)

この福音書の1章1節のみことばは余りにも有名です。

『初めにことば(ロゴス)があった』(ヨハネ1:1)。

前の新改訳聖書では、この箇所の「ことば」に※があって、脚注に次のような説明がありました。

「『ことば』はキリストのこと。したがって、『初めに』はキリストの永遠的存在を意味する」。

『永遠』という概念は、私たち人間にとっては想像することさえ難しいことですが、イエス・キリストは永遠に存在する方であり、そのような方が、私たちと同じような限りある肉体を持って、私たちの世界に来て下さった。それも、全く無力な人間の赤ちゃんの姿で、あの家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれてくださったのです。それが、クリスマスの出来事でした。そして、2節。

『この方は、初めに神とともにおられた』(同1:2)。

ヨハネは、「この方」、つまりイエス様は、時間と世界とが創造される前から、永遠的存在として神とともにおられたと証言しています。それは、父なる神はイエス様のような方であるということだと思います。皆さんは、誰かある人について、「あの人はどんな人なんだろう?」と、その人の人となりについて深く知りたいと思った時、昨日今日、その人と知り合ったような人のところには行かないで、長年、その人とつき合ってきた友人のところに行くのではないでしょうか。昨日今日、知り合ったような人のところに行っても、その人について深く知ることはできないからです。それと同じように、イエス・キリストは、父なる神と初めからずっとともにおられた方なので、私たちは他の何を調べるより、イエス様のご生涯を辿れば、父なる神について知ることができるわけです。
イエス様のご生涯は、クリスマスにもよく歌われる「新聖歌99番(讃美歌121番)」の歌詞に見事に要約されている、と私は思います。この讃美歌は作曲も作詞も日本人という珍しい讃美歌なんですが、作曲は安部正義という人で、日本人初のオラトリオ(演技の無い宗教的オペラ)を作った人としても知られています。また、作詞は由木康で、現代日本語讃美歌の父とも呼ばれている人で、特にこの讃美歌の歌詞は、イエス様の神性についての深い考察から生まれたと言われています。

「1.まぶねの中に うぶごえあげ たくみの家に 人となりて まずしきうれい いくるなやみ つぶさになめし この人を見よ
2.しょくするひまも うちわすれて しいたげられし 人をたずね 友なきものの 友となりて 心くだきし この人を見よ
3.すべてのものを 与えしすえ 死のほかなにも むくいられで 十字架のうえに あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ
4.この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる この人を見よ この人こそ 人となりたる いける神なれ」。

2、キリストのいのち

そして、3節。

『すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった』(同1:3)。

パウロが書いた「コロサイ人への手紙」にも次のように書かれています。

『なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました』(コロサイ1:16)。

以前にもお話ししましたが、私の大好きな曲に、「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」という曲があります。1960年代のルイ・アームストロングの曲です。この曲の作者であるボブ・シールという人は、当時、凄惨を極めたベトナム戦争に深く心を痛め、平和な世界を夢見て、この曲を書いたのだそうです。旧約聖書の「創世記」1章の最後に、

『神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった』(創世1:31a)

とありますが、父なる神と御子イエス・キリストが創造された最初の世界は非常に良かったのです。しかし、その素晴らしき世界に、何故かは分かりませんが、悪が生まれ、罪と死が支配する世界となってしまったのです。私たち「日本メノナイトブレザレン教団」の「信仰告白」では、次のように説明されています。

「しかし、人類は彼らの自由意志を悪用して不従順となり、神に反逆した結果として神との交わりを失い、死ぬべき者となった、人類が神の支配に反逆したので、サタンと罪と死の力が世界を支配することとなった」。

今、「自由意志」ということばがありました。この自由意志は「自我」とも呼ばれているものだと思います。最近、YouTubeで昔の映像をつい見てしまうんですが、植木等という人の「スーダラ節」というのを見ると、何故かホッとさせられるんです。「わかっちゃいるけどやめられない」という歌詞、皆さんもご存じかと思います。植木等のお父さんは浄土真宗のお坊さんで、戦時中、「戦争に行っても殺してはならぬ。殺されてもならぬ」と、あの時代に反戦を堂々と訴えた反骨の人だったそうですが、そのお父さんの血を引いたのか、植木等も、実はすごく真面目で実直な人であったそうです。そんな彼が、「スーダラ節」という曲をもらった時、すごく悩みました。「こんな曲、親父に知れたら、きっと激怒されるだろうなぁ」と。しかし、親父さんはその曲を初めて聞いた時、「すばらしい!これこそ親鸞聖人の教えそのものだ!」とメチャクチャほめてくれたんだそうです。それは、「わかっちゃいるけどやめられない」という歌詞は、人間の矛盾や苦悩というものを見事に言い表していると。聖書にも、パウロの同じような告白があります。しかし、それは、それこそ人間が人間であるがゆえと言うか、神は、そんな人間をお造りになりたかったのではないか、と私は思うんです。もちろん、実際のところは分からないんですが、ただ、事実としてあるのは、神は、人間を、そのサタンと罪と死の支配から解放するため、ひとり子イエス様をこの世界に送ってくださった。そして、イエス様は、人間のすべての罪を背負って十字架の上で死んでくださり、死に勝利して、三日目によみがえってくださったということです。この復活のキリスト。今も生きて、私たちとともにおられるイエス様のいのちこそ、今朝の4節でヨハネが言うところの『いのち(ゾーエー)』のことだと思います。

「キリスト者とは、キリストの教えを忠実に守る人のことではない。また、キリストのような崇高な生涯に生きようと努める人のことでもない。キリスト者とは、日々、キリストのいのちに生かされて歩む人のことである」(榎本保郎牧師)。

<結論>

そして、今朝のテキストの最後に、もう一つ印象的なことばがあります。それは『光(フォース)』です。クラシックの交響曲のような壮大な楽曲では、作曲家はしばしば、最初に、作品全体にわたって展開してゆく「主題」というものを提示するものだそうです。ここで著者ヨハネが書いていることも、それと同じであると思います。『ことば』と『いのち』と『光』とは、「ヨハネの福音書」における「三大基本用語」と言いますか、まさに「主題」と言えます。『いのち(ゾーエー)』ということばは、この福音書に36回出てきます。また、『光(フォース)』ということばも36回出てくるんです。別に図ったわけではないと思うんですが、ちょうど同じ回数です。ヨハネは、

『この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった』(同1:4)

と証言しています。
旧約聖書の冒頭、天地創造の場面での父なる神の第一声は、

『光、あれ』(創世1:3)

でした。新改訳聖書は、その前の状態を、

『地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた』(同1:2)

と訳しています。(茫漠=広くて、とりとめのないさま。また、ぼうっとしてはっきりしないさま)。つまり、神の『光、あれ』ということばで、まだ何もないぼうっとした世界に光が射し込み、この素晴らしい世界の創造が始まったのです。「光」は、私たちをぼうっとした茫漠の世界から、新しい創造の世界へと導いてくれるものです。イエス様は言われました。

『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます』(ヨハネ8:12)。

イエス様は、ご自身のことを『世の光』と言われました。そのイエス様に従う時に、私たちは闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つことができるのです。

『光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった』(同1:5)。

何度も申し上げましたが、これは私の大好きなみことばの一つです。イエス・キリストの光は、今も輝き続けています。闇が光に敗北したことははっきりとした「過去形」です。つまり、そのことは誰にも変えることができない確かな事実であると聖書は言っています。今年一年も色々なことがあると思います。昨年の年末には大阪で悲しい事件がありました。この世には恐ろしい暗闇の支配があるということを改めて思わされましたが、光は真っ暗闇の中でこそ、その輝きを増します。今年も世の光なる方、イエス様に導かれて、歩んで行きましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF112KB)

新聖歌

開会祈祷後:384番、メッセージ後:355番

聖書交読

詩編86篇 1~11節

2022年教会行事

1月5日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10 時~11時)

#54-2797

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2022年1月1日 at 6:52 PM -

    メッセージ中に紹介された楽曲をこちらで紹介しておきます!
    本日のメッセージの余韻を味わうために、こちらもぜひご覧ください。

    Louis Armstrong – What a wonderful world

    植木 等 スーダラ節