第1部
メッセージ
<ピレモンへの手紙 4~20節>
牧師:砂山 智
開会聖句
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
<マタイの福音書 1章23節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:12/12 PM 6:01
メッセージ原稿は、家庭礼拝用として事前公開します。
<序論>
・「ピレモンへの手紙」は聖書の中で最も短い書簡です。また、パウロが書いたであろう多くの手紙の中で、唯一、残っている個人的な手紙です。そして、分類上は「エペソ」「ピリピ」「コロサイ」などと同じく「獄中書簡」の一つとされています。パウロは、1節、或いは9節でも、自らを
『キリスト・イエスの囚人』
と名乗っています。それは、自分はキリスト・イエスの囚人であって、決してローマの囚人ではないというパウロの意地のことばなのかもしれません。
今朝は、この「ピレモンへの手紙」から、「インマヌエルの世界」と題して、皆さんと一緒にみことばに耳を傾けたいと願っています。
1、とりなしてくださる方
この手紙に登場する主な人物は 3 人です。それは、パウロとピレモン、そしてオネシモです。パウロについては、先程もお話ししたように、今、獄中にあるわけですが、この手紙の宛先(受取人)であるピレモンは、コロサイ出身の裕福なローマ市民だったようです。彼はパウロによって導かれてクリスチャンとなり、自分の家を教会のような場所として提供していました。当時は、今のような教会建物はありませんので、彼のような信者の家が用いられたんですね。また、これも当時としては普通のことでしたが、何人かの奴隷を所有していたみたいです。オネシモはその内の一人だったのです。そして、オネシモなんですが、彼は今、パウロの側にいます。獄中のパウロに仕えていると言ってもいいでしょう。それはなぜか?この手紙から分かることは、彼は主人であったピレモンに何らかの損害を与え、逃げて来た。もっとストレートに言えば、主人の家で金目のものを盗んで逃亡して来たのです。そして、どのような経緯でかは分かりませんが、獄中のパウロと出会い、そこで回心した。パウロはオネシモのことを、
『獄中で生んだわが子オネシモ』(10)
と呼んでいます。彼も、ピレモンと同じように、パウロの導きによってクリスチャンになったんですね。そして、パウロは、かつてオネシモが犯した罪の赦しを求めて、この手紙をピレモンに書き送ったのです。この3人の関係から何かを連想された方はおられるでしょうか?そうですね。クリスチャンの皆さんは、父なる神とイエス様と自分との関係を連想されたのではないかと思います。罪を犯したオネシモのために、自らが犠牲を払おうとするパウロの姿は、あの十字架上のイエス様の姿と重なります。パウロは「ローマ人への手紙」で次のように言っています。
『だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです』(ローマ 8:34)。
2、ともにおられる神
そして今朝、皆さんとともに覚えたいもう一つのことがあります。それは、今日の開会聖句にあるように、イエス様が来てくださったことによって、私たちは「インマヌエルの世界」=「神が私たちとともにおられる世界」に生きる者とされたわけですが、そんな世界にも、依然として様々な問題は残っており、私たちの悩みや苦しみがきれいさっぱりと無くなるわけではないということです。既に申し上げたことですが、この手紙に出てきたピレモンとオネシモの関係は主人と奴隷の関係でした。私たちは奴隷と聞くと、何か昔のアメリカなどに連れて来られたアフリカ系の人たちを思い浮かべるかもしれませんが、新約聖書の時代には、主人より豊かな知性や教養を身に着けた奴隷たちもいました。例えば、世界の盟主がギリシアからローマへと変わった時、ギリシア人の中には奴隷とされた人たちもいましたが、彼らは学問や教養の深い人たちで、家庭教師や様々な文化的な面での指導者として用いられたのです。また一方で、奴隷の主人も決して冷酷な人たちばかりではなく、この手紙のピレモンのように思いやりに富んだ人たちもいたでしょう。ただ、そういうことがあったにせよ、それでもなお、この時代には、奴隷制度という、今では完全にタブーとされている社会悪は厳然として存在していたのです。パウロは、この手紙で、オネシモのため、本当に愛に溢れたとりなしをしていますが、奴隷制度そのものについて、その是非については何も語っていません。それはもちろん、私たち人間はパウロであれ誰であれ、その時代の制約の中で生きざるを得ないということを示しているわけですが、今朝、皆さんと覚えたいもう一つのことは、私たちにはどうすることもできないような問題、悩みや苦しみが依然として存在していたとしても、その問題の中にも神はともにいてくださる。いや、むしろ、そのような中にこそ、神はおられるんだ、ということなんです。そして、それは奴隷制度のような、時代や社会と直接関わる問題だけでありません。パウロは 9 節で、自分のことを
『このとおり年老いて』
と言っていますが、パウロにしては珍しく弱気なと言うか、何か年齢的な衰えを感じさせることばです。私も今年に入って特に年齢的な衰えを感じさせられてるんですが、どんな人であっても老いには勝てないでしょう。しかし、そんな老いの中にも、「イザヤ書」42章4節のみことばにもあるように、主はともにいてくださるんです。
今朝の開会聖句は、クリスマスによく読まれる箇所の一つです。マリアの夫ヨセフの夢に主の使いが現れ、その後でマタイが記したことばです。この時、ヨセフは大いに迷っていました。マリアを信じるべきか、それとも・・・。彼は、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと考えていたのです。しかし、彼は夢で「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻に迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」という主の使いのことばを聞いた時、たとえ目の前にある問題が何一つ解決されなかったとしても、その問題の中にも確かに神はおられるんだということを悟ったのです。
愛する皆さん。私たちも、パウロやピレモンやオネシモ、そしてヨセフと同じように、インマヌエルの世界に生かされている者たちです。今、目の前には大きな問題があり、悩みがあり、苦しみがあるかもしれません。そして、それらは簡単には無くならないかもしれません。しかし、神は確かに私たちとともにおられるのです。なぜなら、神のひとり子であるイエス様が人となってこの世界に来てくださったからです。
祈りましょう。
特別讃美
ムジカンパーニュ
「The Little Drummer Boy」、「月の光」、「パラダイス」、「昔ユダのベツレヘムに」
新聖歌*会衆讃美
メッセージ前:新聖歌 77 番 「きよしこの夜」
メッセージ後:「さやかに星はきらめき」
第2部
北部地区クリスマス動画礼拝
昨年に引き続き、今年もMB教団の北部地区に属する5教会の牧師が集まり、動画コンテンツを制作しました!
教会でも上映して来会された皆さんと共に視聴しましたが、ぜひ、お家でも何度でもご覧ください。
その1 クリスマス礼拝
北部地区の牧師5人から、動画をご覧いただいた皆さんに福音をお届けします!
その2 降誕劇
こ…これは!! 当教会でも、昔むかし、毎年恒例で家長会の有志によるイエス様の誕生を祝う降誕劇をやっていました。
それを思い出させてくれる爆笑必至の動画です。さて、一体誰がマリア様の役を!? 楽しくご覧ください。
2020年教会行事
12月15日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#53-2794
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