メッセージ
<士師記 21章13~25節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。
<士師記 21章25節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:12/5 PM 10:15
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・先月から「士師記」をテキストにお話ししてきました。その結論が最後に書かれています。今朝の開会聖句です。
『そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた』(士21:25)。
イギリスのバプテスト教会の牧師であったF・B・マイヤーという人は、この「士師記」について、
「士師記は、救い主を王として認めぬ者らの実態を描写した書物である」
というコメントを残しています。
「士師記」を学ぶことは、罪人である人間の現実をしっかりと見つめることではないかと思います。そのことなしに、救い主イエス様が来られたことに心から感謝し、罪の赦しというものを実感することはできないのではないでしょうか。
1、ベニヤミン族の罪
さて、今朝の物語に出てくるベニヤミン族の始祖であるベニヤミンという人は、ヤコブの十二番目の息子、つまり末の息子でした。英語では「ベンジャミン」と発音しますよね。母はヤコブが最も愛した妻ラケルで、兄はあのヨセフです。そのようにベニヤミン族は、言わば、由緒正しいイスラエル十二部族の一つでした。しかし、あるおぞましい事件をきっかけとして、他の十一部族、つまり、全イスラエルを敵に回すようになってしまうのです。「士師記」19章1~3節をご覧ください。
『イスラエルに王がいなかった時代のこと、一人のレビ人が、エフライムの山地の奥に寄留していた。この人は、側女として、ユダのベツレヘムから一人の女を迎えた。ところが、その側女は彼を裏切って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムにある自分の父の家に行って、そこに四か月間いた。夫は、若い者と一くびきのろばを連れて、彼女の後を追って出かけた。彼女の心に訴えて連れ戻すためであった。彼女が夫を自分の父の家に入れたとき、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた』(士19:1~3)。
その悲劇は、レビ人の家庭の不和から始まりました。旧約聖書の時代には、側女を置くことは普通に行われていましたが、そのことを原因とするトラブルも絶えなかったようです。そして、少し飛んで14~16節。
『彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギブアの近くまで来たとき、日が沈んだ。彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町に入って広場に座った。彼らを迎えて家に泊めてくれる者は、だれもいなかった。そこへ、夕暮れになって畑仕事から帰る一人の老人がやって来た。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに寄留していた。この土地の人々はベニヤミン族であった』(士19:14~16)。
14節の彼らとは、先程のレビ人とその若い従者、そして側女のことですが、レビ人は側女を自分の家に連れ帰ろうと彼女の父の家を出発し、エブス(後のエルサレム)の近くまでやって来るんですが、その辺りで日が暮れかけたんですね(11節)。しかし、この時代、エブスはイスラエル人の町ではなく異邦人の町でした。ですから、レビ人たちは、同胞ベニヤミン族が住む町ギブアに泊まろうとして進んで行ったのです。日本には「秋の日は釣瓶落とし」という言葉がありますが、パレスチナでは「黄昏時」というのが全く無くて、日が沈むとすぐに真っ暗になるそうです。おまけに、ギブアというのは丘の上にある町でした。そこで日が沈んで月も出ていないと、そこから先は本当に真っ暗で、旅人は全く前に進むことができなかったんですね。だから彼らは、ギブアの町の広場で途方に暮れていたのでしょう。現代人である我々には理解できないことですが、当時のパレスチナでは、見知らぬ旅人であっても、それを自分の家に招いてもてなすというのは、とても大切な務め(美徳)とされていました。ところが、この時、ギブアのベニヤミン族には誰一人として同胞であるレビ人たちを招いて家に泊めてくれる人はいなかったのです。そのこと自体、彼らの心の状態が自己中心と言うか、利己的な思いに凝り固まっていたということを表していると思います。しかし、たまたま、そこにエフライムから来た寄留者(よそ者)の老人が通りかかり、彼らを自分の家に迎え入れてくれるのです。とても親切な老人です。けれども、この後、本当に目を覆いたくなるようなおぞましい事件が起きます。
『彼らが楽しんでいると、なんと、町の男たちで、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで戸をたたき続け、家の主人である老人に言った。「おまえの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」そこで、家の主人であるその人は、彼らのところに出て行って言った。「それはいけない、兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。あの人が私の家に入った後で、そんな恥ずべきことはしないでくれ。ここに処女の私の娘と、あの人の側女がいる。今、二人を連れ出すから、彼らを辱めて、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしあの人には、そのような恥ずべきことをしないでくれ。」しかし、男たちは彼に聞こうとしなかった。そこで、その旅人は自分の側女をつかんで、外にいる彼らのところへ出した。彼らは彼女を犯して、夜通し朝まで暴行を加え、夜が明けるころに彼女を放した。夜明け前に、その女は自分の主人のいるその人の家の戸口に来て、明るくなるまで倒れていた。彼女の主人は、朝起きて家の戸を開け、出発しようとして外に出た。見ると、そこに自分の側女である女が、手を敷居にかけて家の入口で倒れていた。彼は女に、「立ちなさい。さあ行こう」と言ったが、何の返事もなかった。そこで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分のところへ向かって行った。彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分の側女をつかんで、その肢体を十二の部分に切り分け、イスラエルの全土に送った。それを見た者はみな、「イスラエルの子らがエジプトの地から上って来た日から今日まで、このようなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考え、相談をし、意見を述べよ」と言った』(士19:22~30)。
2、勝利は神の力によって
もしかして、この箇所を初めて読んだという方は、「こんな話が聖書に載ってるなんて!」とショックを受けたかもしれません。私が神学生の頃、ある講師がこの箇所から話しをされ、「吐き気を催すような最悪の出来事」とおっしゃっていましたが、正しくその通りです。そして、この事件をきっかけとして、ベニヤミン族への報復が始まります。同じイスラエル人同士で、血で血を洗うような殺し合いが行われるんですね。その結果は、やはり多勢に無勢。最終的にベニヤミン族は敗れて、リンモンの岩と呼ばれる場所にまで追い詰められます。そこで一族が滅亡してしまう危機に陥ってしまうのです。それは、ベニヤミン族の女性たちが一人残らず根絶やしにされた。つまり皆殺しにされてしまったからなんです。これで彼らは子孫を残すことができなくなってしまったわけです。ベニヤミン族以外の十一部族はイスラエルの中から悪を取り除こうと復讐心に燃え、そのようなことを行ったわけですが、事ここに至って、「えらいこっちゃ!やりすぎてもうた!」と、自分たちの大切な仲間でもあるベニヤミン族が滅びてしまうという大きな問題に直面させられたわけです。そこで、彼らが考え出した方法というのが、これがまた最悪の方法だったんです。それが、今朝の聖書の箇所です。まず、この戦いに参加しなかったヤベシュ・ギルアデという町を攻撃して、そこに住んでいた四百人の処女を略奪し、ベニヤミン族に与えます。それでも足らないということで、今度は、シロという町で行われていた祭りに集まる娘たちを略奪して、自分の妻とするように、とベニヤミン族の男たちに勧めるんです。そうすれば彼らは、今朝の18節でも言っているように、21章1節の「私たちはだれも、娘をベニヤミンに妻として与えない」というミツパでの誓い、神への誓いを破らないで済むと考えたようですが、現代人の我々の感覚からすれば、とんでもない屁理屈と言うか、全くもって自分勝手なご都合主義の誤魔化しとも言えるような方法ですよね。
<結論>
「士師記」の最後、21章24~25節には、
『それぞれ』
ということばが三度も繰り返されています。このことばこそ、この時代が神をも地上の秩序をも無視した時代。あのF・B・マイヤーが言ったように、救い主を王として崇めない者たちの時代であった、ということを何よりも表しているのではないでしょうか。
もうすぐクリスマスがやって来ます。クリスマスによく歌われるヘンデルの「メサイア」の中で一番有名な「ハレルヤ・コーラス」で「キング・オブ・キングス」と合唱しますが、本当にキリストこそ、王の中の王なる方です。
私たちはキリストをそのような王としてお迎えしているでしょうか?それとも、単なる助言者、教師、顧問のような存在としてお迎えするだけでしょうか?聖書のみことばも、自分にとって都合が悪ければ聞き流す。そんな風に読んではいないかなぁ、と思わされます。ハレルヤ!真の王であるイエス様を心からお迎えしましょう!
新聖歌
開会祈祷後:68番、メッセージ後:75番
聖書交読
詩編83篇 1~18節
2021年教会行事
12月8日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10 時~11時)
#53-2793
Comments are closed