メッセージ
<士師記 7章1~14節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって罠となった。
<士師記 8章27節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:11/16 AM 9:58
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・今朝のメッセージの主人公はギデオンです。ギデオンと聞くと多くの方は「国際ギデオン協会」を連想するのではないでしょうか。私が生まれて初めて聖書を手にしたのは、今から50年前、中学1年生の時だったんですが、それはギデオン協会からいただいた新約聖書でした。「国際ギデオン協会」のHPにはその名前の由来について次のように書かれています。
「1898年秋、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ボスコベルの小さなホテルで、見知らぬ青年同士(ジョン・H・ニコルソン、サムエル・E・ヒル)が偶然、相部屋となり、お互いがクリスチャンであることを知り、共に聖書を読み、祈ったことからギデオン協会発足の計画が生まれました。翌年5月に発会式をしましたが、その後参加したのは、ウィリアム・J・ナイツただ1人でした。この3名によって、クリスチャンで旅行する実業家たちが互いに交流を持ち、個人的にイエス・キリストを人々に証し、共に主イエスのために労しようとの決意が表明され、旧約聖書の士師記6章~7章に登場する人物ギデオンにあやかって、会の名称を「ギデオン(TheGideons)」と定めました」。
聖書にはたくさんの人物が登場しますので、なぜ、その中でギデオンが選ばれたのかは分からないんですが、今朝の聖書にありましたように、少数精鋭。たとえ3名であっても、主の助けがあれば勝利することができるということにあやかろうとしたのかなと思わされました。
1、信じることは疑いとの戦い
「士師記」6章にはギデオンの召命の場面が描かれています。当時、イスラエルは、ミディアン人によって苦しめられていました。ミディアン人というのはアブラハムの第四子に由来する民族で、モーセとも親戚関係にありましたが、この時代はイスラエルと敵対していたんです。ギデオンは、一人でぶどうの踏み場「酒槽」(さかぶね)で小麦を打っていました。聖書はそれを、
『ミディアン人から隠れるためであった』(士6:11b)
と、わざわざ説明してくれています。そんなギデオンに、突然、主の使いが現れ、「力ある勇士よ」と呼びかけます。私だったら、「なんでやねん!?嫌味か!」と思ったかもしれません。そして、主の使いはさらに、「主があなたとともにおられる」と告げたのです。そのことばに対するギデオンの反応は、6章13節。「何言ってるか、意味分らんし」というものでした。
『「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。「主は私たちをエジプトから上らせたではないか」と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」』(同6:13)。
しかし、そんなギデオンのことばを無視するかのように、今度は、主の使いではなく、主ご自身が彼の方を向いて言われます。
『「行け、あなたのその力で、あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」』(同6:14)。
それでもギデオンは、自分がどれほどその務めに相応しくない者であるかということを訴えるのですが、神もあきらめません。尚も彼に迫ります。そこで、ギデオンが持ち出した条件というのが、しるし(奇跡)を見せてください。そうすれば私はあなたに従いますということでした。実に慎重で、用心深い彼の性格を表しているように思えます。神は肉と種なしパンを岩の上で焼き尽くすというしるしを見せ、そのギデオンの願いに応えてくださるのです。
工藤先生の本の中に「健全な信仰は多分に健全な不信仰を含む」という言葉があります。他書からの引用ですが、
「信仰とはだまされやすいことではない。何でも信じる人は、何も信じようとしない人と同じくらい神から離れている」
とも。先日、テレビで、コロナ陰謀論を信じる人についてのニュースを見ながら、その言葉を思い出しました。どんな人でも、本気になって信じようとすればするほど、自分の心の中に湧き上がってくる疑いとの戦いを経験するのではないでしょうか。それとも、疑いが起こってくるほどにも信じていないのか。まぁ、そこそこに、自分が損をしない程度に。イエス様がご自分のすべてをかけて愛してくださった愛に、自分はすべてとは言わないまでも、どれほどのものをかけてお応えしようとしているかなぁ、と思わされます。
2、勝利は神の力によって
さて、今朝の聖書の箇所なんですが、よくご存じの方もおられると思います。8章10節を見ると、この時のミディアン軍は十三万五千人の大軍であったということが分かります。そんな大勢の敵に対してイスラエル軍は三万二千人。四分の一以下です。それでも少ないのに、まず二万二千人が去り、さらに、水の飲み方で九千七百人が不合格とされ、最終的には三百人だけが残されたのです。舌で水をなめる者、飲むために膝をつく者は別にせよというのは、敵の前で緊張感が足りないと言うか、戦士としての基本的な心構えができていない者は連れて行くなという意味ですね。ですから、選りすぐりの三百人だけが残されたということですが、それは2節にあるように、この勝利は神の力によるということをイスラエルにはっきりと示すためでした。面白いのは、10節で、神はギデオンに、
「もし、あなたが下って行くことを恐れるなら、あなたの従者プラと一緒に陣営に下って行き、彼らが何を言っているかを聞け」
と言っておられることです。神は、慎重で用心深いギデオンに配慮してくださって、そのようにお命じになったのかな、と感じました。そして、今朝のテキストの後、15節以降には、ギデオンに率いられた三百人が、実に四百五十倍ものミディアンの大軍を打ち破ったことが描かれています。ギデオンは、まさに「力ある勇士」という呼び名に相応しい大活躍で、イスラエルに見事な勝利をもたらしたのです。
<結論>
ただ、今朝のメッセージの最後に、皆さんと、もう一つだけギデオンについて見ておきたいことがあります。それは彼の失敗についてです。ミディアンに大勝利を収め、敵の王を打ち倒したギデオンは、8章22節。人々から、「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も、私たちを治めてください」と求められます。彼は、「主があなたがたを治められます」と言って、その願いは断るんですが、その代わりにと言うか、皆がつけていた金の耳輪や戦利品の衣などを求めるのです。その結果が今朝の開会聖句です。
『ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって罠となった』(士8:27)。
ずっと後の時代ですが、「Ⅱ列王記」18章に、名君と謳われたユダのヒゼキヤ王が、何百年も昔にモーセが作ったという青銅の蛇の像を砕いた。それは、そのころまでイスラエル人がこれに犠牲を供えていたからだ、と書かれています。モーセもそうでしたが、ギデオンにも、そんなつもりはなかったでしょう。しかし、彼が作ったエポデは、結果として、イスラエルに偶像崇拝の罪を犯させることになってしまったのです。それは、もしかすると、その後の30,31節にあるように、彼には大勢の妻と七十人の息子がいて、その中には、シェケムにいた側女、つまり異教の女性との間にできた息子もいたということが影響していたのかもしれません。
士師(さばきつかさ)というのは、ある時には、「スーパーマン」のように見えることもあるんですが、決して「スーパーマン」ではありません。それぞれに肉の弱さを持ち、その時代、その時代の制約の中で生かされている、私たちと同じ一人の人間です。私たちは、決して一人の人を理想化することはできませんし、何か「聖人」のようにして崇めることも厳に慎まなければならないでしょう。私たちが真に讃美すべき方、崇めるべきお方は、そのような人間を用いてみこころを行われる、神お一人なんです。
新聖歌
開会祈祷後:143番、メッセージ後:340番
聖書交読
詩編80篇 1~19節
2021年教会行事
11月17日(水)オリーブ・いきいき百歳体操(10 時~11時)
#53-2790
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